太田述正コラム#10638(2019.6.25)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その61)>(2019.9.13公開)

 以上に見たような日本特有の植民地帝国の概念の萌芽は、日本が未だ植民地なき国家であった時代に、・・・総理大臣山県有朋が・・・衆議院で行った演説にすでに見られました。・・・

⇒さすがに、三谷も、本件を持ち出しましたね。
 しかし、そうなると、遼東半島還付の話は一体何だったの、ということになるはずですが・・。
 但し、いずれにせよ、三谷は、山縣の話から、更に遡らなければならなかったわけです。(太田)

 <山県の用いた「利益線」ですが、>「勢力範囲」(sphere of influence)とか「利益範囲」(sphere of interest)といった帝国主義の概念が国際法上の概念として国際社会に認知されるにいたるのは、1884年から1885年にかけての欧米列強によるアフリカ分割の原則を定めたベルリン会議<(注66)>においてであるといわれています。

 (注66)「1884年に・・・14か国が参加した<ベルリン>会議によって・・・[<領有>が認められる条件はヨーロッパ人の活動(通交・交易)を保障できる実効支配が行われていること<、>]沿岸部を新規に領有した国は・・・その後背地の領有を国際的に認められること、新規に領土を得た国は他の列強にその事実を通告することなどを定めた植民地化の原則<等>が合意された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%88%86%E5%89%B2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E4%BC%9A%E8%AD%B0_(%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%88%86%E5%89%B2) ([]内)

⇒「事実を通告する」前の段階におけるところの、領有した沿岸部が「主権線」、その後背地が「利益線」、的なことが三谷の念頭にあるのかもしれませんが、典拠を付けず、しかも、「いわれています。」と言われても困ってしまいます。(太田)

 ・・・山県・・・は、この時期に確立された最新の帝国主義概念をもって日本の対外政策の基本線を説明したのです。

⇒この前後を読んでいただけば分かると思いますが、全くもって説得力がありません。(太田)

 ただし、山県演説に現れた日本の「利益線」(「利益範囲」)概念は、欧米諸国のアフリカ分割に適用された概念とは異なり、日本が国境線の安全に密接に係わると見た地域に適用されるものでした。
 要するに日本の「利益範囲」とは、欧米の場合よりも、すぐれて軍事的な意味をもつ「利益範囲」でした。
 日本の場合、「利益範囲」は国境線と隣接する区域を想定しており、「利益線」は後年の「生命線」<(注67)>に近い概念でした。・・・

 (注67)「生きるか死ぬかの分かれ目になる絶対に守らなければならない最も重要な限界。・・・日露戦争以後は満州・蒙古地域(満蒙)を日本の経済・国防上の<生命線>とみる対外政策が主張された。こうした意見は昭和六年(一九三一)の満州事変前後、軍部を中心として高ま<り、>・・・東京日日新聞‐昭和六年(1931)二月一日<付記事>「満蒙はわが国の生命線であるに拘らず」<のように、>・・・当時の有力新聞でも満蒙の危機がさけばれ、「生命線」が喧伝された。」
https://kotobank.jp/word/%E7%94%9F%E5%91%BD%E7%B7%9A-546476

 <さて、>枢密院は1888(明治21)年5月、帝国議会開設に先立って、皇室典範案および憲法案の審議にあたる目的で創設されました。・・・
 政府は重要な法令、たとえば憲法付属の法令とされた衆議院議員選挙法や貴族院令、議院法などの改正を行う場合には、帝国議会への改正案提出に先立って、天皇の名による枢密院への諮問(「諮詢」)を行い、その承認を得なければなりませんでした。
 しかも勅令<(注68)>案の場合には、貴族院のあり方を定めている貴族院令について貴族院が審議権を与えられているのを例外として、帝国議会には枢密院に与えられているような審議権はありませんでした。

 (注68)「<法律で定めなければならないところの、>法律事項以外<については、>・・・軍に関することは軍令で、皇室に関することは皇室令で<、それ以外のものは、大日本帝国憲法第9条に基づき、>・・・勅令事項とされていた。・・・
 法律と同様に上諭を付けて公布され、天皇の御名 御璽の後に内閣総理大臣、場合によっては内閣総理大臣及び当該勅令条項を主管する国務大臣、あるいは内閣総理大臣以下全ての国務大臣による副署を加えて公布された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E4%BB%A4
 大日本帝国憲法第9条:「天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス」
https://oplern.hatenablog.com/entry/2018/05/13/150444
 「天皇ハ法律ヲ執行スル為」の勅令は、日本国憲法下の、執行命令たる政令と委任命令たる政令に相当する。
 それ以外の勅令は、独立命令だが、日本国憲法下では認められていない。
 但し、「勅令の形式的効力は法律に劣るものとされてい・・・た」(以上、上掲)

 その意味で、明治憲法体制下における日本の議会制は、枢密院と帝国議会との二層構造をもっていたといえるのです。
 それはむしろ枢密院を最上院とし、その下で帝国議会の両院(貴族院および衆議院)が機能する三院制であったといっても不当ではないでしょう。

⇒三谷のこのくだりの前後は、やはり珍しいことではあれど、啓発的です。(太田)

(続く)