太田述正コラム#10640(2019.6.26)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その62)>(2019.9.14公開)

 しかも枢密院には、政府が調印した国際条約について、それを審議し、批准すべきかどうかについて採決を行い、最終意見を具申する権能がありました。
 これは米国上院に匹敵する権能です。
 さらに帝国議会には付与されていなかった勅令案の審議権と承認権を持っていた枢密院には、多くが勅令の形をとる植民地立法に対しても大きな影響力がありました。・・・
 日露講和条約調印から3ヵ月余りを経た1905(明治38)年12月20日、すでに11月17日に調印されていた(第二次)日韓協約に基づいて、日本の韓国当地の中心機関となることが予定されていた統監府および理事庁<(注69)>官制案が天皇の名において枢密院に諮問(「諮詢」)されました。・・・

 (注69)「韓国統監府の職務を分掌するため各地に置かれた機構。・・・第二次日韓協約が締結されると第<4>条に基づいて、韓国の各開港場と日本国政府の必要と認める地に理事庁が置かれた。理事官(奏任官)は統監の指揮監督を承け、これまで領事館が担ってきた業務を引き継いだ。さらに安寧秩序を保持するために緊急の必要があると認める場合、当該地方駐在帝国軍隊の司令官に出兵を請うことができ、また韓国の施政事務であって条約に基づく義務の履行のために必要があれば韓国当該地方官憲に執行させることができた。理事庁は釜山・馬山・群山・木浦・京城・仁川・平壌・鎮南浦・元山・城津・大邸・新義州・清津に設置された。1907年9月の官制改正で理事庁の警察官は廃止され看守を置くことになった。1910年7月、理事長の警察事務は警務総監部または各警務部に移管、同年10月に朝鮮総督府が成立すると理事庁は廃止され、船舶および船員に関する事務は税関に、戸籍に関する事務は警察署に移管され、その他の業務は道および府に引き継がれた。」
https://www.jacar.go.jp/glossary/term2/0050-0020-0010-0010-0070.html

 当時枢密院議長を務めていたのは、・・・元老<の>・・・伊藤博文です。
 伊藤は、すでにこの段階で日本から韓国へ派遣される初代統監として韓国の外交権を管理することが予定されていました。・・・
 <この>官制案第4条<で>、統監には朝鮮半島に駐屯する日本軍隊、すなわち日本の韓国守備軍の司令官に対して兵力の使用を命令する権限が与えられてい<ました。>・・・
 しかしいかに元老とはいえ、シヴィリアンに軍隊統率権が認められるということは、・・・将来、「統帥権の独立」を非実質化する危険をはらんでい<まし>た。
 <このような>軍部<の問題意識>の現れが翌年、1906年7月に枢密院に提出された関東都督府官制案でした。・・・
 当時陸軍大臣であった長州出身の寺内正毅は、同じ長州出身で草創期の陸軍を作った元老山県有朋の支持を得て・・・関東都督の陸軍将官制を実現し、一度は朝鮮において失った「統帥権の独立」を完全回復するための橋頭堡を築いたのです。
 統監府および理事庁官制が公布された5年後の1910年に韓国が日本に併合されると、最後の韓国統監であった陸軍大将寺内正毅を初代朝鮮総督とする日本の朝鮮に対する植民地統治が始まります。
 それを機会として、第二次桂内閣は新たに制定された朝鮮総督府官制において武官総督制を導入し、かつて朝鮮で二代(4年5カ月)にわたって文官総監(伊藤博文・曽禰荒助<(注70)>いずれも長州出身)に付与されていた軍隊統率権を陸海軍大将である武官総督の手に回収したのです。

 (注70)1849~1910年。「萩藩の家老の<家の一つ>の出身で・・・戊辰戦争初期に従軍した。明治維新後、・・・明治政府に出仕を命じられ、<更に>フランス留学を命じられて・・・帰国<後>・・・陸軍省勤務。翌年から陸軍士官学校勤務を兼ねた。明治14年(1881年)に太政官書記官に転じ、明治19年(1886年)4月に内閣記録局長、明治23年(1890年)に初代衆議院書記官長に任命された。・・・<その後、>衆議院選挙に出て・・・当選<するが、>・・・明治26年(1893年)に駐フランス全権公使に任じられた。・・・明治31年(1898年)に第3次伊藤内閣が発足すると司法大臣に就任。以後、農商務大臣、大蔵大臣、外務大臣等を歴任。・・・明治40年(1907年)に初代統監府副統監として伊藤博文を補佐し、<2年後の>伊藤の<暗殺>後に韓国統監となった<が、>・・・胃癌により同職を辞し<、死亡>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E7%A6%B0%E8%8D%92%E5%8A%A9

 ところが・・・枢密院<で>・・・薩摩出身の文官の元老松方正義は、<武官総督制に>・・・修正<(反対)>意見を出したのです。
 これは武官に対する文官の立場からの批判であると同時に、台湾、関東州租借地、朝鮮に及ぶ全植民地体制を、陸軍を通して事実上壟断しようとする長州系藩閥に対して、陸軍の後景に退いていた海軍を含めた薩摩系藩閥の代表者が浴びせた反論でした。
 しかし松方の修正意見を即座に支持したのは、同じ薩摩出身の元外相西徳二郎<(注71)>のみでした。

 (注71)「父は鹿児島藩士。藩校造士館に学び、戊辰戦争に従軍。開成所、東京大学生徒監督等を経て、明治3年(1870)ロシア留学。8年ペテルブルグ大学法政科を卒業。フランス、ロシアの公使館勤務後、日本人として初めて中央アジアを踏査し、14年帰国。後に報告書『中亜細亜紀事』(1886)を出版した。以後、太政官大書記官、ロシア駐箚特命全権公使、30年枢密顧問官、第2次松方・第3次伊藤内閣の外相就任、31年朝鮮半島における支配権をめぐる西・ローゼン協定をロシアと締結する等、対ロシア外交に尽力した。」
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/497.html
 彼の「子に、乗馬の選手として1932年のロサンゼルスオリンピックで活躍し、のち太平洋戦争末期の硫黄島の戦いで戦没した「バロン西」こと西竹一陸軍大佐がいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%BE%B3%E4%BA%8C%E9%83%8E

 枢密院議事細則第10条によって、第二読会で提出された修正意見は、他に3名以上の賛成がなければ議案とはなりえませんでした。
 そこで<時の>山県<有朋>議長は「六番(松方)より修正意見出たるも所定の賛成なきにより消滅す」と宣したのです。
 その結果、第三読会に移された原案が全員一致で可決されることとなったのでした。

⇒曽禰の統監就任は、伊藤暗殺という緊急時の措置であったことに鑑みれば、文官に軍隊統率権が与えられのは、事実上、伊藤のケースの一件のみであった、と解するべきでしょう。
 これは、当時の憲法の政府解釈違反でしたが、伊藤が事実上その憲法制定者であったこと、維新時に軍隊従軍経験のある、しかも元老であったこと、そして、枢密院議長であったこと、から実現したわけです。
 言うまでもなく、伊藤は長州藩出身でしたし、たまたま、松方と西が薩摩藩出身だったとはいえ、松方、西両人とも、維新時に軍隊従軍経験が全くなかったわけではありませんし、他方、山縣は島津斉彬コンセンサス信奉者であった、と来れば、そして更に、「台湾、関東州租借地、朝鮮に及ぶ全植民地」が「利益線」上に位置するところの日本の安全保障の最前線であって、これら最前線における有事において即時かつ適切に駐留軍を用いなければならないことを踏まえれば、軍人が現地部隊統率権を有する形で統治の責任者に据えられてしかるべきであって、愚論を吐いた松方、西の両名が圧倒的少数派にとどまり、簡単に退けられたのは、当然だったと言うべきでしょう。
 つまり、三谷が長州閥と薩摩閥との対立論をここで援用したことは・・どこでこの対立論を援用しようと同じことですが・・ナンセンスなのです。(太田)

(続く)