太田述正コラム#10650(2019.7.1)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その65)>(2019.9.19公開)
この政権下で、それまで植民地行政を掌握してきた内閣総理大臣所管の拓殖局<(注74)>が行政整理の結果廃止され、韓国併合以来長州出身にして陸軍出身の桂太郎首相の下で構築された一元的な陸軍主導の植民地統治体制が崩れることになります。
(注74)「日露戦争終結後から・・・台湾総督と樺太庁長官に対する監督業務は内務省の内務大臣官房台湾課および樺太課が担当しており、関東都督に対する監督業務のみ外務省が担うこととなっていた。それは、関東州租借地および南満洲鉄道附属地の性質上、清国との外交交渉が生じる可能性があることが理由としてあった。拓殖局の設置により、後の朝鮮総督府を含め植民地行政機関に対する監督業務は内閣に一元化された。但し、関東都督に対してのみ、外交に関する部分は引き続き外務省が分掌することとされた。この時の拓殖局は、第一次山本権兵衛内閣の行政整理により、1913年6月13日の「拓殖局官制廃止」(勅令第112号)をもって廃止された。その後、1917年7月28日に「拓殖局官制改正」(勅令第73号)により再度設置された。この時の拓殖局は内閣総理大臣の管理下に属し、勅任の長官が統括し、朝鮮・台湾・樺太・関東州・南満洲鉄道株式会社に関する事務を管掌した。1922年10月30日には勅令第476号により拓殖事務局が設置されることとなり、拓殖局は再度廃止となった。1924年12月20日に拓殖事務局の廃止により、内閣の所属局として再設置された。その業務は、拓殖事務局の事務を引き継いでおり、朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋に関する事務を管掌し、局長は勅任官とされた。1929年6月8日、「拓務省官制」(勅令第152号)によって拓務省が設置され、拓殖局は三度廃止となった。」
https://www.jacar.go.jp/glossary/term3/0010-0020-0020-0020.html
関東州租借地は外務大臣の管轄となり、朝鮮・台湾・樺太は内務大臣によって統括されることとなったのです。・・・
⇒別に陸軍出身者が首相に就くと決まっているわけではないのに、どうして、首相所管の部局が「一元的な陸軍主導の植民地統治体制」ということになるのか、さっぱり分かりません。
そこに、「長州出身にして」などという、思わせぶりな修飾語句が付くとなるとなおさらです。(太田)
大正初頭の政変によって長州閥および陸軍が喫した政治的敗北が、それに対立する政権による植民地官制改正に反映していたのです。・・・
<また、>1913年12月17日に枢密院本会議に提出された樺太庁官制改正案によって、樺太守備隊司令官である陸軍将官を行政責任者たる樺太庁長官に充てることができるという規定の削除が提案されました。・・・
<そして、>原<敬>の内務大臣としての提案説明が了承され、1913年12月23日付で樺太庁官制改正が勅令第309号として公布されました。
これは、日露戦争によって日本の領土に編入された樺太(南サハリン)の統治の主導権をめぐる政軍対立(civil-military rivalry)、特に原に代表される内務省を拠点とする政友会勢力と、元老山県有朋によって庇護され、朝鮮総督や陸軍大臣を歴任してきた寺内正毅によって代表される長州閥陸軍との権力闘争の結果でした。
⇒時の首相は薩摩藩出身の山本権兵衛ですが、薩摩閥と長州閥との対立物語が、いつの間にか「内務省を拠点とする政友会勢力」と長州閥との対立にすり替わっていますね。
内務大臣なんて、事実上、首相の部下でしかないというのに・・。
薩摩閥と長州閥との対立なるものが妄想であるからこそ、こういうすり替わりが起り得る、というか、すり替わりを起こしたくなる、のでしょう。
そもそも、「内務省を拠点とする政友会勢力」だって、意味不明です。
原は、それまでに既に2度、内務大臣を務めていますが、日露戦争が始まった時点以来の歴代内務大臣達は、原以外は、全て、「山縣系官僚」あがりか薩摩藩ないし佐賀藩出身者、つまりは、島津斉彬コンセンサス信奉者達ばかりであるところ、仮に、長州閥/山縣系、対、薩摩閥等、という三谷等流妄想の図式で考えてみても、原は確かにそうではありませんが、彼は別として、薩摩閥等はゼロ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%8B%99%E5%A4%A7%E8%87%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)#%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%86%85%E5%8B%99%E5%A4%A7%E8%87%A3
なのですからね。
樺太庁の話は、むしろ、私の言うところの、島津斉彬コンセンサス信奉者達と横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達とのせめぎ合い、を裏づけるものです。
ロシアの脅威が著しく低減しているのだから、接壌しているけれど、間宮海峡があるので、事実上接壌していないところの、樺太(南樺太)植民地の長が軍人である必要はない、との後者の側のスタンスが、この時点では政府のスタンスになった、という説明ができるからです。(太田)
(続く)