太田述正コラム#10813(2019.9.21)
<皆さんとディスカッション(続x4202)/G・B・サンソムの日本史観と戦後日本(その2)–どうして欧米時代に?>

<太田>(ツイッターより)

(TVで最後の20分間見てたんだけど、)ラグビー日露戦、日本の勝利。
https://www.bbc.com/sport/live/rugby-union/49422122
その旨、BBC電子版がほぼリアルタイムで報じた。
さすが、ラグビー発祥の地だ。
気合入ってるねえ。
それにしても、反則場面が何回もあったけど、なんで反則なのか、私にはさっぱり分からなかったな。
お休み。

<yS7Q/wFY>(「たった一人の反乱(避難所)」より)

≫都市国家ないしそれに毛が生えた程度の小国(地域)群を無視するとすると≪(コラム#10811。太田)

 平均寿命の時も疑問を覚えたけど、小規模群を排除する意味ってなんなの?

⇒今や、いかなる国にとっても貿易は必要になっているが、香港やシンガポールの場合、そもそも、基本的に都市市街地のみしかない、と見てよい。
 そんなの国、ないし国並みの地域、とは言えないだろ。
 他方、「に毛が生えた程度の小国」ってのは、基本的に人口1千万に満たない諸国さ。
 規模的に大都市並みでしかないので、様々な統計が偏りを見せる場合が往々にしてあるってこと。(太田)

<t7eIHt9Y>(同上)

 ゲームだけど日本人は共感能力が高いらしい。
 アンドロイドにも人間にも同程度の共感を示して非暴力的な傾向があるって。
 アンドロイドに重要な選択を任せるのにも抵抗はないってよ。
https://www.gamer.ne.jp/news/201909170030/

<9CPZPn5M>(同上)

≫国際政治の実態が複雑怪奇であるにもかかわらず、地政学の偏光メガネをかけるとこれが過度に単純化されて見え<てしまうので・・・不毛≪(コラム#10811。太田)

 国際政治への理解なら、やっぱりリアリズム?

⇒私に関しては、普遍的論理じゃなく、文明論的論理を踏まえた個別リアリズムって感じかな。(太田)

<太田>

 それでは、その他の記事の紹介です。

 記事本文が殆ど読めないので、よー分からん。↓

 「アイヌ「先住民否定」日本会議が講演会 札幌市施設で開催へ 抗議相次ぐ・・・」
https://mainichi.jp/articles/20190920/k00/00m/040/275000c

 日本の戦後で言えば、同一年齢のうちの20,000~40,000人はいる、という勘定だから、ぜーんぜん大したこたぁない、というか、全く無意味。↓

 「IQ上位2%しか入れない「MENSA」、その実態と入会するメリット・・・」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190920-00000002-moneypost-bus_all

 本日の「講演」のタイミングでこんな記事が出るとは。
 最初の世界一周は、ポルトガル人かスペイン人か。↓

 ・・・Magellan set sail from Spain with a fleet of five ships, but he himself only made it halfway around the world. After crossing the strait at the southern tip of the Americas that now bears his name, he was killed in battle in the Philippines.
 Only one of the ships completed the three-year circumnavigation, guided home by Elcano, a Spanish officer from the Basque Country.
“The focus has always been on Magellan, but everybody should know that this was the project of a Spanish king, financed with Spanish money and completed by a great Spanish navigator whose role has unfortunately been forgotten,”・・・
https://www.nytimes.com/2019/09/20/world/europe/spain-portugal-magellan.html

 トランプが、次々に米白人のホンネを暴露してくれるねえ。↓

 Trump Administration Orders Changes to Duke, UNC Curriculum Because It’s Not “Positive” Enough About Judaism and Christianity・・・
https://slate.com/news-and-politics/2019/09/trump-devos-duke-unc-curriculum-islam-judaism-christianity.html

 米国は、裸の資本主義社会だから当然。↓

 How economists turned all of society into a market・・・
https://www.washingtonpost.com/outlook/how-economists-turned-all-of-society-into-a-market/2019/09/19/c5e2faac-be0b-11e9-a5c6-1e74f7ec4a93_story.html

 日・文カルト問題。↓

 <珍しくいい報道。↓>
 「韓国進出10年 「食文化の懸け橋に」=中村調理製菓専門学校・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190920002700882?section=japan-relationship/index
 <どっちもどっち。↓>
 「慰安婦ドキュメンタリー映画『主戦場』の監督、日本右翼に名誉毀損で訴えられる・・・」
https://japanese.joins.com/article/834/257834.html?servcode=A00&sectcode=A10&cloc=jp|main|breakingnews
 <これも、日本の外務省側にも落ち度あり。↓>
 「「旭日旗は問題ない」という日本、2010年中国アジア競技大会では「自制」要求・・・」
https://japanese.joins.com/article/835/257835.html?servcode=A00&sectcode=A10&cloc=jp|main|breakingnews
 <馬まで道づれとは。↓>
 「日韓対立、韓国競馬界に飛び火 日本馬不在で困惑も・・・」
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49932920Y9A910C1000000/
 <とにかく、下品。↓>
 「文政権が“嫌がらせ”展開か「放射能五輪は危険」 原発処理水に難くせも…韓国はすでに「日本の6倍放出」! 識者「非科学的なイチャモンで日本たたき」・・・」
https://news.infoseek.co.jp/article/00fujifor1909200002/
 <教祖であるせいか、まだ異常に高過ぎる。(安倍チャンだって一貫してそうだけどね。)↓>
 「文在寅氏の支持率、最低の40%…チョ氏任命影響か・・・」
https://news.infoseek.co.jp/article/20190920_yol_oyt1t50264/
 <文教祖、日本カードが効かなくなってるねー。↓>
 「・・・7月1日から始まった韓国社会のボイコット・ジャパン運動が大方の予想を越えて長期化する中、運動に参加する韓国人が日々増えている。・・・9月19日の調査によると、日本製品の不買運動に参加している韓国人は65.7%で、これまでの調査で最高を記録した。・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/money/%E5%8F%8E%E6%9D%9F%E3%81%AE%E6%B0%97%E9%85%8D%E3%81%AA%E3%81%97%E3%80%81%E4%BA%88%E6%83%B3%E4%BB%A5%E4%B8%8A%E3%81%AB%E5%BC%B7%E5%9B%BA%E3%81%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%80%8C%E4%B8%8D%E8%B2%B7%E9%81%8B%E5%8B%95%E3%80%8D/ar-AAHBgZx?ocid=spartanntp#page=2
 <以下、一連の記事、報道価値なし。↓>
 「韓日局長協議 徴用訴訟や輸出規制巡り意見交換=対話継続で一致・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/09/20/2019092080252.html
 「韓国のWTO提訴 日本が2国間協議に応じる方針表明=合意は困難か・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/09/20/2019092080247.html
 「「輸出規制WTO違反」韓国提訴に日本「協議」–菅原経産相「立場明らかにする」…具体的日程は近く決定の模様・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/09/21/2019092180001.html
 「日本、WTO「輸出規制措置」2国間協議に応じる方針…「妥協なくWTOに行くということ」・・・」
https://japanese.joins.com/article/829/257829.html?servcode=A00&sectcode=A10&cloc=jp|main|breakingnews
 「韓日の社会学会が声明「会って対話を」・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/09/21/2019092180003.html
 「サムスントップが訪日 ラグビーW杯開幕戦観戦・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/09/20/2019092080248.html
 「サムスン副会長が東京でラグビーW杯観戦、韓国財界「韓日が同伴者であることを日本国民に喚起効果」・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/09/21/2019092180004.html
 <「認」めろー。↓>
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/09/21/2019092180006.html
 <文教祖みたいなこと言うなー。↓>
 「日本政府の朝鮮学校差別70年、涙に濡れた「4・24」・・・」
https://japanese.joins.com/article/824/257824.html?servcode=A00&sectcode=A00&cloc=jp|main|breakingnews
 <アイゴー。↓>
 「韓国政府、歴代最長の6カ月連続「景気不振」判断・・・」
https://japanese.joins.com/article/832/257832.html?servcode=300&sectcode=300&cloc=jp|main|breakingnews
 「2年前に景気はピークに達したが….政府のさかさま政策・・・」
http://www.donga.com/jp/home/article/all/20190921/1853253/1/%EF%BC%92%E5%B9%B4%E5%89%8D%E3%81%AB%E6%99%AF%E6%B0%97%E3%81%AF%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%81%AB%E9%81%94%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8C-%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%AE%E3%81%95%E3%81%8B%E3%81%95%E3%81%BE%E6%94%BF%E7%AD%96

 殊勝である。↓

 「中国、軍事力強化の正当性主張・・・日本などのアジアや欧州、アフリカの・・・各国に関係者派遣・・・」
https://news.infoseek.co.jp/article/kyodo_kd-newspack-2019092001001836/

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <人民網より。
 日中交流人士モノ3篇。↓>
 「「2019 VISIT JAPAN中国人訪日観光写真コンテスト」作品募集スタート! –日本の活力をシェアしよう!・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/0920/c206603-9616170.html
 「ジェイ・チョウの新曲MVきっかけで日本旅行が大人気に ビザ申請が激増中・・・」http://j.people.com.cn/n3/2019/0920/c94475-9616481.html
 「中国人民解放軍佐官級訪日団が訪日・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/0920/c94474-9616445.html
 <客観記事やねー。↓>
 「日韓対立激化 最後に勝つのはどちらか・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/0920/c94474-9616498.html
 <当然、米国に批判的。↓>
 「日米貿易交渉 日本は引き続き自動車関税に戦々恐々・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/0920/c94476-9616301.html
 <当時、彼らが本当は何をやってたのかに興味あるなあ。↓>
 「香港地区の抗日英烈紀念碑に落書き 「烈士に対する侮辱。『九・一八』事変を忘れていけない」・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/0919/c94638-9616116.html
 <興奮し過ぎ。↓>
 「バレーボールW杯女子で中国が3対0で日本下す 5戦全勝、失セット0・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/0920/c94475-9616469.html
 <ここからは、サーチナより。
 同じく。↓>
 「女子バレーW杯、中国が日本を圧倒 郎平監督「楽に戦えた」・・・中国メディア・東方網・・・」
http://news.searchina.net/id/1682771?page=1
 <チョイ前の記事の使い回し。↓>
 「世界一ティッシュを使う国、日本 そのわけは?・・・中国メディア三分鍾遊世界・・・」
http://news.searchina.net/id/1682762
 <まあ定番。↓>
 「モバイル決済は普及していない日本、だが「配慮ある自販機で溢れていた」・・・今日頭条・・・」
http://news.searchina.net/id/1682772?page=1
 <中共の日本文明総体継受、改めて前途遼遠だと思うなあ。↓>
 「・・・今日頭条は・・・「どうして日本では政治家になっても貧しいのか」と題する記事を掲載した。
 記事はまず、日本の政治家は「上に上り詰めれば上り詰めるほど貧しくなる」と紹介。・・・
 記事は、村山富市元首相の引退後の生活について紹介。「家を買うお金も、白内障の手術をするお金もなく、家政婦を雇える余裕などあるはずもなく、自転車で買い物に行く姿が目撃されている」と伝えた。・・・
 記事はさらに、日本では公務員も収入がかなり低いと紹介している。それでいながら、日本の公務員は仕事にまじめでわいろを受け取らず、職権乱用をしようともしないと感心したように伝えた。・・・
 記事に対して多くの中国人ユーザーから「だからこそこんなに小さな島国がここまで強くなった」という称賛のコメントや、「日本は偉大だというほかない」という意見があり、手放しで絶賛されていた。」
http://news.searchina.net/id/1682769?page=1
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 一人題名のない音楽会です。
 角野隼斗の3回目(最終回)です。

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 Op.18 PTNA2018コンペ特級ファイナル/グランプリ ←彼の華奢で細身のガタイが気になる。これでは男性ピアニストの(筋肉、重量の)メリットが生かせない。何かが足らない気がするのは、これによるところの、力のスラックのなさも一因か。
https://www.youtube.com/watch?v=wK6PuiQi3SQ

サン・サーンス=リスト編:死の舞踏 S.555 R.240 ←第42回 入賞者記念コンサート 特級 グランプリ
https://www.youtube.com/watch?v=nT4seB4j-Jk

ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー オケ:? ←PTNA主催のいわば凱旋演奏。これは素晴らしい。彼に合っている曲だと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=74aNBBPr3HE

(完)
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   –G・B・サンソムの日本史観と戦後日本(その2)–どうして欧米時代に?–

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1 始めに

2 人類最初の大移動–出アフリカ
 [アメリカ原住民]
 [四人種と古代都市文明]
 [コーカソイドの2語族への分裂
 (一)インド・ヨーロッパ語族
 (二)ハム・セム語族    ]

3 次の大移動–ゲルマン人の全世界進出
 (1)前史としてのインド・ヨーロッパ(印欧)語族の拡散
 〇印欧語族について
 〇イラン・アーリア人の大移動
 〇ケルト人の大移動
 〇ギリシャ人の南下と東方遠征
 (2)ゲルマン人

4 過去の諸帝国の限界 
 (1)秦・漢、唐、明
 (2)フンやモンゴル
 (3)ギリシャ
 (4)ローマ
 [ローマ軍の強さ]
 [パルティア支配層はゲルマン人?]

5 ゲルマン人の大移動とそのモメンタム
 (1)第一次ゲルマン人大移動–南下
 (2)第二次ゲルマン人大移動–ローマ帝国西部征服
  ア ローマ帝国西部の征服
 [傭兵]
  イ ローマ帝国旧領(ブリテン島中・南部)の征服
 (3)第三次ゲルマン人大移動–欧州東部:最南部征服
  ア カロリング家による旧西ローマ領外ゲルマン人の征服(ローマ化)
 [ヴァイキングの時代–その原因と進展]
  イ ヴァイキングのロシア征服(スラヴ征服1)
 [コサック]
  ウ ヴァイキングの南イタリア「征服」:11~12世紀
  エ 北方十字軍:12世紀央~16世紀(スラヴ征服2)
 [ヴェネツィア、ジェノヴァ、フィレンツェ等]
 [イスラム勢力とのせめぎ合い]
  ・イスラム勢力の侵攻とイスラム勢力による包囲
  ・イスラム包囲網への挑戦
 [英仏百年戦争]
 (4)第四次ゲルマン人大移動–地理的意味での欧州外へ
  –ポルトガル–
 [ジョアン2世前後の諸ポルトガル国王と対外進出]
  –スペイン–
  –イギリス–
  –補足的総括–
 [トルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)]

6 終わりに代えて
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1 始めに

 欧米時代とはゲルマン人大移動の最終フェーズである、というのが私の考えです。
 ゲルマン人大移動って、地理的意味での欧州の人々の欧州外進出が始まった時点で考えても、その1000年も前に終わっているではないか、という反論がすぐ出てきそうですね。
 いや、そうではない、その前の、皆さんにもお馴染みのやつを第二次ゲルマン人大移動と名づけるとするならば、それから、第三次ゲルマン人大移動があり、更にその後、最終フェーズであるところの、第四次ゲルマン人大移動が始まった、のです。
 以下、どうしてそんなことが言えるのか、をご説明します。
 いや、ちょっと待て、どうして、その前のやつが第二次なんだ、ゲルマン人大移動の第一次って何のことだ、という声が聞こえてきますね。
 もちろん、そのことについてもご説明しますので・・。
 さて、「どうして欧米時代に?」ということを考え始めたきっかけは、Chaseさんが三谷太一郎の『日本の近代とは何であったか』を太田コラムで取り上げて欲しいとその本を提供されたところ、その本の中に、私が名前だけはよく知っていたサンソムの『西欧世界と日本』と『世界史の中の日本』への言及があったことから、この両著を読んだところ、欧米の(地理的意味での)欧州の外への進出、とりわけ、そのアジアへの進出の原因とそれが日本に及ぼした影響を論じてる箇所に関し、彼の交易を重視する論述に納得できなかったことです。
 そこで、この交易説の是非を見極めるために、わざわざ、Erich H. Mielantsの’The Origins of Capitalism and th Rise of the West’をインドから取り寄せて(?!)読んでみたところ、この本の出来の悪さもあって、完全に交易説に見切りをつけ、より説得力ある説をネット上で探し始めたのです。
 (ここまでの、試行錯誤の経緯について、機会があったらコラム・シリーズに仕立てるつもりです。)
 で、8月初頭、1492年という年号がふと頭に浮かんだんですよね。
 これ、レコンキスタの終わった年であり、かつ、コロンブスが北米大陸(の諸離島)を「発見」した年でもあって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/1492%E5%B9%B4
誰でも、大学受験の時に覚える年なんですが、これ、偶然じゃなく、レコンキスタと欧米の欧米外進出とは一つながりの出来事ではないのか、と、私はずっと前から思っていました。
 以上のような問題意識の下で、初めて注目したのは、「レコンキスタ」という言葉の持つ意味についてです。
 言うまでもなく、レコンキスタとは、「718年から1492年までに行われた、複数のキリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動の総称である。ウマイヤ朝による西ゴート王国の征服とそれに続くアストゥリアス王国の建国から始まり、1492年のグラナダ陥落によるナスル朝滅亡で終わる」出来事ですが、レコンキスタって「スペイン語で「再征服」(re=再び、conquista=征服すること)を意味し、ポルトガル語では同綴で「ルコンキシュタ」という。日本語においては意訳で国土回復運動や、直訳で再征服運動とされることもある」言葉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF
ですが、どうして、「再」なのよ、じゃ、初回のコンキスタは何だったのよ、という疑問です。
 それは、「6世紀初頭、フランク王国との戦いに敗れ、国家の重心をイベリア半島へ移した西ゴート王国は、約1世紀をかけて半島全土を支配下におさめた」(上掲)ことを指すのではないか、と。
 もとより、イスラム勢力によって征服されたイベリア半島を征服し返すということなのかもしれません。
 しかし、そうだったのなら、後者の意味にしか受け取れない言葉をあてたはずだ、とね。(コラム#省略)
 で、前者の場合、それって、明らかにゲルマン人大移動の一環であり、しかも、その担い手はゲルマン人だったわけですよね。
 その時のじゃない「再」の方だってそうです。
 「718年、西ゴート王国の貴族を称するペラヨが、アストゥリアス地方でキリスト教徒を率いて蜂起し、アストゥリアス王国を建国した。多くの史家はレコンキスタの開始をこの年に設定している。722年(あるいは718年、724年とも)、ペラヨはコバドンガの戦いに勝利し、イスラム勢力に対するキリスト教国家として<イベリア半島での>初めての勝利を手にした。これは実際には小規模な戦いに過ぎなかったが、イベリア半島のキリスト教徒にとっては象徴的な初勝利であった。以降、アストゥリアスはレコンキスタの拠点となった。同じ頃、カンタブリアでも豪族のペドロ公がイスラム勢力を排除していた。両国は連携し、ペドロ公の息子のアルフォンソ1世<(注1)>は、ペラヨの娘と結婚した。間もなく両国は統合され、地盤を得たアストゥリアス王国は、徐々に南方への反攻を開始した。<また、>732年、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国のカール・マルテル<(シャルルマーニュ)>が勝利を収め、ムスリム勢力のピレネー以北への進出を阻止した。」(上掲)という次第であるところ、上出の「ペラヨはアストゥリアス地方を支配していた西ゴートの貴族ファフィラ(ファビラ)の息子で・・・、ファフィラは・・・西ゴート王ウィティザに殺害されたとい<われ、>ペラヨは西ゴート王キンダスウィントの孫とされ<る>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A8
と、「再」がスタートした時の指導者達はみんな西ゴート人、つまりはゲルマン人系、だったのですからね。

 (注1)「ペドロとアルフォンソ1世は579年から584年まで続いた西ゴート王国での内戦(宗教戦争)に敗れたヘルメネギルドの子孫だった(ペドロは玄孫(もしくは曾孫)、アルフォンソ1世は来孫(もしくは玄孫)にあたると言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%82%BD1%E4%B8%96_(%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%B9%E7%8E%8B)
 「ヘルメネギルド (Hermenegild、550/7年頃?/564年~585年4月13日)は、西ゴートの王族。レオヴィギルド王とヒスパノ・ローマ人の妻テオドシアの子。レカレド1世の兄。彼は当時イベリア半島で支配的だったアリウス派の教育を受けた(反対にヒスパノ・ローマ人はカトリックだった)。彼のカトリックへの改宗は父親との対立を生む原因となり、父親に対して反乱を起こし、捕らえられてから死んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8D%E3%82%AE%E3%83%AB%E3%83%89 
 
 そこまできた時点で、ポルトガルの欧州外進出は、スペインの1492年よりずっと早かったことが気になり出したので、調べてみたところ、「13世紀<に既に接壌地域における>レコンキスタ<を>達成<していたところ、>・・・1387年にカスティーリャ王国と最初の休戦協定<を>結んだ後、1396年から1397年にかけて起きた小競り合いを経て数度休戦協定が結ばれ、1411年にカスティーリャ王国との間に和約が成立したことで隣国からの脅威が取り払われた。<この時にあたって、>ブルゴーニュ王朝末期から続く経済危機、新興貴族の台頭という潜在的な危険に対して、ジョアン1世は<欧州>への金の供給元であるアフリカ大陸への進出という手段で解決を図<ることとし、>当初はナスル朝が支配するグラナダが攻撃先に挙げられていたが、<グラナダに唯一接壌するキリスト教国である>カスティーリャの感情を考慮して攻撃先<を>モロッコの港湾都市セウタに変更<し、>1415年にポルトガル軍はマリーン朝が支配するセウタを攻略し、ポルトガルは世界の一体化に行き着く<欧州>諸国の対外拡張政策の先陣を切<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B9%E7%8E%8B%E6%9C%9D
という次第であり、「金」だの「経済危機」だのといった余計なことが書かれているけれど、私なりに要約すれば、内紛とカスティーリャとの争いが小康状態になった途端、間髪を入れず、ポルトガルは欧州外進出を図った、というわけです。
 で、このポルトガル王国の祖のブルゴーニュ朝のアフォンソ1世なんですが、彼は、「フランス王家カペー家の支流ブルゴーニュ家のアンリ・ド・ブルゴーニュ(ポルトガル語名エンリケ)<と>・・・カスティーリャ=レオン国王アルフォンソ6世<(在位:1065~1109年)の>王女テレサ・・・の子」であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A5%E7%8E%8B%E6%9C%9D
ゲルマン人です。
 しかも、ポルトガルにおける、その次のアヴィス朝だって、初代のジョアン1世(在位:1385~1433年)は、ブルゴーニュ朝のペドロ1世の庶子ですから、ゲルマン人の血が流れていることに変わりはありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A2%E3%83%B31%E4%B8%96_(%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E7%8E%8B)
 彼の子の一人があの有名なエンリケ航海王子ですが、ジョアンの妃、そして、このエンリケの母、が一体誰だったかを知った時に、私が思わず飛び上がった話を後でします。
 ああそうそう、この原稿をほぼ書き上げた段階で、コサックのゲルマン性を「発見」し、びっくりしましたね。

 さて、ここで、話は丸っきり変って、しばらく移民の話をすることにします。
 現在でも移民は、世界中で見られますよね。
 とりわけ、アフリカ等から欧州へ、中南米から米国へ、という、大量不法移民問題は毎日のようにメディアに取り上げられているところ、この二つは大移動と言ってもいいかもしれませんが、移民が生じる原因としては、一般には2つあると言えるでしょう。
 1つは、戦乱や迫害や飢饉や感染症のリスク回避(A)であり、もう1つは、経済的ないし文化的により快適な生活を送るためのリスク選好(B)です。 
 この2つが組み合わさったものもあるでしょう。
https://www.ft.com/content/94010fa6-be9c-11e9-9381-78bab8a70848 ←参考にした
(8月25日アクセス)

 そもそも、人類は、大規模な移民であるところの、大移動、をはるかに昔からしてきた、というあたりから始めましょうか。

2 人類最初の大移動–出アフリカ

 まず、下掲に目を通してください。↓

 「ミトコンドリアDNAの分析では、現代人の共通祖先の分岐年代は14万3000年前±1万8000年であり、<欧州>人とアジア人の共通祖先の分岐年代は、7万年前±1万3000年であると推定された。 ・・・
 崎谷満は人類のY染色体ハプログループおよびミトコンドリアDNAハプログループは出アフリカ後、イラン付近を起点にして南ルート(イランからインド、オーストラリアへ)、北ルート(イランからアルタイ山脈付近へ)、西ルート(イランから中東・カフカス山脈付近へ)の3ルートで拡散したとしている。すなわち南ルートをとった集団がオーストラロイド、北ルートがモンゴロイド、西ルートがコーカソイド、非出アフリカがネグロイドということになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%8D%98%E4%B8%80%E8%B5%B7%E6%BA%90%E8%AA%AC 

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[アメリカ原住民]

 「インディアン/インディオの祖先は、約2万5000年前にシベリアに進出したモンゴロイドである。・・・
 エスキモー・アレウトは、おそらく比較的最近にシベリアからアラスカに進出し、グリーンランドまで拡散した。寒冷な気候に適応して進化した新モンゴロイドである。・・・
 加えて南米原産のサツマイモがコロンブス以前のポリネシアから発見されていることから、ポリネシア人が南アメリカ大陸から持ち込んだと考えられ、南アメリカ大陸と交流があったと思われるが、ポリネシア人がアメリカ先住民の遺伝子プールに与えた影響などは不明である。」
 (このほか、有史以前にコーカソイドもやってきた痕跡がある的なことが邦語ウィキペディアには出て来るが、英語ウィキペディア群には一切その種の言及はないので、ガセだと思われる。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%B7%9E%E3%81%AE%E5%85%88%E4%BD%8F%E6%B0%91%E6%97%8F
 以上も踏まえれば、語弊のある言い方かもしれないが、欧州人達やアングロサクソンのアメリカ大陸「侵略」時における、中南米諸文明の脆さや北米アメリカ原住民の「未開」状態、から判断するに、アメリカ大陸に大移動したモンゴロイドは、他の、ずる賢く腕っぷしも強いモンゴロイドの圧迫から「逃げた弱い」人々だったのではないか。
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 なぜ、アフリカにとどまった人々がいた一方で、出アフリカを選んだ人々が出現したのか、について論じたものを見たことがありませんが、やはり、AやBやその組み合わせだったのではないでしょうか。
 いずれにせよ、出アフリカを選んだ人々は、アフリカに残った人々に比べて、より積極的な人々であったったはずです。
 また、出アフリカを選んだ人々のうちの相当部分は、先住民のネアンデルタール人とほんの少しですが混血すること(典拠省略)によって、アフリカに残った人々との違いが更に大きくなったと考えられます。(注2)

 (注2)「ネグロイドを除く現生人類の核遺伝子には絶滅したネアンデルタール人類特有の遺伝子が1~4%混入している・・・。・・・混血したのは今から6万年くらい前<だ。> ・・・
 顔の曲率を調べる方法の一つとして「鼻頬角(びきょうかく)」があり、これは左右眼窩の外側縁と鼻根部を結ぶ直線がなす角度で、コーカソイドで136度から141度であり、モンゴロイドでは140度から150度であるが、ネアンデルタール人類では136.6度であった。・・・
 <また、>白っぽい皮膚、金髪や赤毛、青い目などいくつかのコーカソイド的な特徴や、インフルエンザウィルス耐性などはネアンデルタール人から受け継いだ可能性が高い<。>・・・
 男性の身長は165cmほどで、体重は80kg以上と推定されている。骨格は非常に頑丈で骨格筋も発達していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%BA
 デニソワ人については、まだ分かっていないことが多過ぎる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%8B%E3%82%BD%E3%83%AF%E4%BA%BA
ので、捨象した。

 なお、「注2」を踏まえれば、ネアンデルタール人の遺伝子の混入率が、コーカソイドは最も高い人々である、と言えそうですね。
 以上を踏まえれば、コーカソイドは寒い場所が好きだった人々、モンゴロイドは暑からず寒からずの場所が好きだった人々、オーストラロイドは暑い場所が好きだった人々、であって、その結果が肌の色の違いになって現れ、かつまた、コーカソイドは、先住「人」がいる・・ネアンデルタール人は「欧州大陸での総人口は多くても6千人ほどで、 地球全体でも人口が2万人を超えることはほとんどなかったと思われる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%BA
けれど、想像するに狩猟採集に最適な地域は限定されていて、容易に「生活痕」を見出すことはできたのではないか・・場所にあえて分け入った人々、でもあった、ということになりそうです。

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[四人種と古代都市文明]

 「コーカソイドはユーラシア大陸のイラン付近から中東、<欧州>に移動していた人々の末裔である。クロマニョン人はコーカソイドの直接の祖先と考えられる<(注3)>。・・・

 (注3)「クロマニョン人は現在のヨーロッパ人の祖先の一部である・・・
 コーカソイドに入ると考えられるが・・・コーカソイドを特徴づけるような形質はまだ獲得していなかった可能性が極めて高い。・・・
 180センチメートル前後の長身、頭が大きく、直顎で、頤がみられる。歯は小さい。・・・
 きわめて現代人に似ていたが、筋骨は強壮であったと思われる。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A7%E3%83%B3%E4%BA%BA

 アフリカ人はネグロイドに分類されるが、北東部アフリカはサハラ砂漠以南の西南部アフリカ(ブラックアフリカ)とは異なった遺伝子的特徴を持っている。スーダン南部に広がる大湿地帯のボトルネック効果と中世以降の<コーカソイド系の>アラブ人による入植のため<だ。
 なお、>北アフリカの先住民であるベルベル人<も>コーカソイド系に属すとされる。ただし、ベルベル人など北アフリカの民族<は、>・・・ネグロイドとの混血が示唆される。
 さらにエチオピアの主要民族であるソマリ族(エチオピア人種)も、古くからベルベル系とネグロイド系の混血で構成されている。 ・・・
 西アジア(西南アジア)では、トルコのトルコ人、アゼルバイジャンのアゼルバイジャン人などが該当され、こちらも現在ではテュルク系のコーカソイド種族に属される。 ・・・
 インドにおいては南部~スリランカ(シンハラ人、タミル人など)では、オーストラロイドである先住民のドラヴィダ人が、東部ではモンゴロイドのムンダ人が、北部のカシミール地方でも<やはりモンゴロイドの>チベット人がコーカソイドのインド・アーリア人との混血が古くからあった。そのため世界でも珍しい三人種混血地域となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%BD%E3%82%A4%E3%83%89
 2017年に行われた、ミイラのDNA研究を踏まえれば、古代エジプト人はコーカソイドであったと言えそうだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/DNA_history_of_Egypt

 また、「シュメール<は、>・・・、メソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアの南半分の地域・・・に興った最古の都市文明であ<って>初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えた。・・・
 シュメール語は孤立した言語であり、たとえばアッカド語がセム語族に属するような形での近縁関係にある言語をもっていない。
 シュメールの言語、文化、また、おそらくは外見も周囲のセム系の民族とは異なっていた。・・・創世記では洪水後シナル(シュメール地方)に住み着いたのは「東からやってきた人々」とされており、言語的また容貌的観点からモンゴロイドである可能性もある<・・オーストラロイドであった可能性も?(太田)・・>。シュメール人は広範に征服民か移住民であると信じられている。しかしそのような移住がいつ行われたのか、またシュメール人の地理的な起源がどこなのかを正確に決定することは難しい。一部の考古学者はシュメール人が実際にはメソポタミア平原に出自を持つとの観点にいたっている。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB

 すなわち、初期のメソポタミア文明を担った人々は、モンゴロイドかオーストらロイドだったらしい。但し、中期以降はコーカソイドだった。(太田)

 ドラヴィダ人「紀元前53000年頃、アフリカ東岸からインド南西部に移住する。 さらに北、東へと広がって行く。紀元前2600年頃、インダス川流域(現在のパキスタン)にインダス文明を形成する。複数の都市よりなる文明である。紀元前1800年頃から、紀元前1500年頃にかけてインダス文明の都市は放棄される。・・・
 現在ドラヴィダ系の人々はインド全域に居住しているが、古くからの文化を保持する民族は南インドを中心に居住している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%80%E4%BA%BA

 すなわち、インダス文明を担った人々は、オーストラロイドだったらしい。
 長江文明や黄河文明を担った人々はもちろんモンゴロイドだった。
 結局、4大人種中、古代都市文明を担わなかったのは、アフリカに残ったネグロイドだけだった、ということになる。
 結局、積極的な人々でないと、文明など築けない、ということになりそうだ。
 また、コーカソイド中、現在の北欧と中欧に住む人々の身長が世界で一番高い
https://honkawa2.sakura.ne.jp/2188.html
が、これは、彼らがクロマニョン人直系である可能性を示唆しているのではないか。
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[コーカソイドの2語族への分裂]

 (一)インド・ヨーロッパ語族

 「インドからヨーロッパの大半の地域に分布する言語族で、現在の英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語もみなこれに属する。印欧語族ともいい、ドイツ語ではインド・ゲルマン語族の名が慣用となっている。おもな語派は、ヨーロッパではゲルマン(英語、ドイツ語、北欧諸語など)、バルト、スラブ(ロシア語、ポーランド語、チェコ語など)、ケルト(アイルランド語、ウェールズ語など)、イタリック(ラテン語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ルーマニア語など)、その南ではアルバニア語、ギリシア語、小アジアではアルメニア語、それに死滅したヒッタイト語、東ではインド(サンスクリット語、ヒンディー語、ベンガリー語など)、イラン(ペルシア語、クルド語など)、それに、中央アジアのトゥルファン、クチャ周辺で・・・唐代の僧玄奘(げんじょう)三蔵が旅したころ話されていたトカラ語がある。
 歴史的にみて、もっとも古い文献をもつのはヒッタイト語<だ。>」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E8%AA%9E%E6%97%8F-818979

 (二)ハム・セム語族

 「西アジアから北部および東部アフリカにかけて話されてきた言語群の総称。・・・
 東セム語派:バビロニア・アッシリア語」
 北西セム語派:ヘブライ語、フェニキア語、アラム語<等>
 南西セム語派:アラビア語、エチオピア語<等>
 ハム語族:古代エジプト語/コプト語
      リビア・ベルベル語
      ソマリ語 ハウサ語
      その他」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%A0%E8%AA%9E%E6%97%8F-861740

 つまり、マクロ的に言えば、コーカソイドはインド・ヨーロッパ語族とセム・ハム語族に分裂し、インド・ヨーロッパ語族は、北方でこそ繋がって分布しているが、南方では、北アフリカ/中近東において、セム・ハム語族によって東西に分断されている、というわけだ。
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3 次の大移動–ゲルマン人の全世界進出

 (1)前史としてのインド・ヨーロッパ(印欧)語族の拡散

 〇印欧語族について

 「<コーカソイド中、>インド・ヨーロッパ祖語を話していた人々<については、>・・・19世紀後半以降、特にナチスの時代には、これが「アーリア民族」<(アーリアン学説にいうところの最広義のアーリア人)>(本来は・・・インド・イラン民族<(現存の末裔民族も含むところの広義のアーリア人)>のことであるが)の名で呼ばれ、ドイツ人などがその直系の子孫であるかのように喧伝された・・・。・・・
 彼ら<は、>・・・牧畜<(注3-1)>と農耕が主要な生業であった。

 (注3-1)「牧畜社会は人口密度の低い山岳部や半砂漠地帯、大草原地帯など農耕では食糧需要を満たせない場所で盛んに営まれる。・・・
 特定の居住地を定めずに季節や天候に応じて家畜を引き連れて移動する牧畜生活を遊牧と言う。・・・
 牧畜民は隣人からの強奪などによって全財産とも言える家畜を失う危険を常に抱えていたために、男らしさや名誉を重んじる文化や、政府の力を頼らない自衛の文化がある。スコットランド人や地中海周縁部の諸民族など、かつて牧畜民だった民族にもこうした文化が多く見られる。
 <欧州>の北部や中央アジア・アラビア半島・サハラ砂漠周縁部などの乾燥地、アラスカ・シベリアなどの寒冷地で主要な生業となっている。・・・
 牧畜の歴史は古く、農耕とならんで紀元前5000年頃、新石器時代の古代エジプトなどではすでに行われていた。狩猟も同じく動物を対象とするが、定常的に動物と接することになる牧畜とは文化的・技術的に大きな隔たりがある。最初に家畜化された動物はイヌであるが、牧畜のための最初の家畜はヤギやヒツジであると考えられている。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E7%95%9C

 一部の集団は後に遊牧生活に入り、定住的な牧畜・農耕をする集団の周囲に広がるステップ地域での生活を可能とした。家畜には馬、牛、豚があり、家畜は代表的財産でもあった。のちには車を馬や牛に曳かせて盛んに利用するようになった。海または湖を知っていたが漁業・航海はあまり盛んでなかった。金属はおそらく金・銀を知っていたが、日常的には銅器を使用した(銅器時代)。
 社会制度は家父長制であり、・・・族外婚<(注4)>制だった可能性も高い。祭祀、戦士、平民の3階級からなっていた。

 (注4)「文化によって同族の範囲、内容は異なるが、多くの文化で族外の者との婚姻が推奨される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%8F%E5%A4%96%E5%A9%9A

 神々は天にいると考えられ、主神は「父なる神」(ギリシャのゼウス、ローマのユピテルのように・・・)と呼ばれたと思われる。・・・
 インド・ヨーロッパ祖語を話していた人々・・・には、急激な地理的拡大とも相俟って好戦的イメージがつきまとい、昔はこのイメージは称賛された・・・
 紀元前3500年ごろの銅器時代から青銅器時代にかけてのインド・ヨーロッパ語族の推定範囲<は、>コーカサス山脈を挟んで北側(黒海北岸)の・・・ヤムナ文化(紀元前3600-2300ごろ)・・・と南側(黒海東岸から南岸、すなわちアルメニアからアナトリアにかけての一帯)の・・・マイコープ文化(紀元前3700-2500)・・・に分かれてい<た>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E7%A5%96%E8%AA%9E

 つまり、印欧語族は、牧畜を中心とする生活を送っていた人々であり、元々、私の言う、弥生性志向度の高い傾向があった、と言えそうですね。

 〇イラン・アーリア人の大移動 

 参考のため、表記についても、触れてはおきます。↓

 「前15世紀以降にイラン集団(イラン・アーリア人)<(諸民族に分裂する以前であるところの狭義のアーリア人)>が拡大していった・・・<彼らが創り出した>宗教はマズダー教(及びその内の多数派であるゾロアスター教)であ<り、>・・・インド・アーリア人が創り出した宗教<は>・・・バラモン教<である。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA
 「<イラン・アーリア人>の分布範囲はイラン高原を超えて西はハンガリー平原、東はオルドス平原に至るユーラシア・ステップ全域に及んだ 。 当時は西イラン語群系のペルシャ帝国が古代史において覇権を握っており、文化的に大きな影響を残した。東イラン語群系の遊牧民はステップの騎馬文化やシルクロードにおいて大きな役割を果たした。古代の<イラン・アーリア人>にはアラン人、バクトリア人、ダアイ、マッサゲタイ、Medes、ホラズム、パルティア、サカ族、サルマタイ、スキタイ、ソグド人などが含まれる。
 紀元後1000年までに、<イラン・アーリア人>の分布域は、スラヴ系民族、ラテン系民族、ゲルマン系民族、アラブ系民族、テュルク系民族、モンゴル系民族、チベット系民族の拡大にとって代わられるかたちで減少していき、多くはスラヴ化した 。現在のイラン系民族はバロチ族、クルド人、ロル族、オセチア人、パシュトゥーン人、パミール人、ペルシャ人、タジク人などが含まれる。現在の分布域はイラン高原からコーカサス山脈、新疆にかけてである 。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E7%B3%BB%E6%B0%91%E6%97%8F
 「インド・アーリア人<は、>・・・古代においては、狩猟と牧畜によって生計を立て、飼育する動物の中では馬に最も重要な役割を置いていた・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA

 要するに、イラン・アーリア人の大移動は、遊牧民的な・・つまりは、モンゴルの大拡張時代と類似の要因による・・ものであった、と言えそうです。

 〇ケルト人の大移動

 「中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持って<欧州>に<大移動>したインド・ヨーロッパ語族<の>・・・民族である・・・ケルト人」<は、>・・・紀元前1500年から紀元前1000年くらいにかけては、現在の仏独国境付近に<おり>、その後、紀元前400年には北はブリテン諸島、西はイベリア半島北部、南は北イタリア/ボスニア、東はウクライナ/ルーマニア西部、まで拡散的移動を行った。
 ギリシャ人は彼らをガラティア人、ローマ人は彼らをガリア人と呼んだ。
 「ケルトの社会は鋭利な鉄製武器を身に付け、馬に引かれた戦車に乗った戦士階級に支配され<ていた。>・・・当初の宗教は自然崇拝の多神教であり、ドルイドと呼ばれる神官がそれを司っていた。 初期のドルイドは、祭祀のみでなく、政治や司法などにも関わっていた。 ドルイドの予言の儀式では人身供犠が行われてい<た。>・・・ケルト人は輪廻転生と霊魂の不滅を信じていた。ポンポニウス・・・や・・・カエサルは、ケルト人の戦いにおける勇敢さや人命への軽視とケルト人の死生観を結びつけて考えた。
 また、ケルト人には人頭崇拝の風習があった。ケルト人は人の頭部は魂の住処となる神性を帯びた部位であり、独自に存在し得るものと考えた。敵の首級を所有することでその人物の人格や魂を支配できると信じ、戦争で得られた首級は門などの晴れがましい場所に飾られたり、神殿への供物や家宝として扱われた。」(注5)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%88%E4%BA%BA

 (注5)つい最近まで、東南アジア各所で首狩りをやっていた諸部族がいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E7%8B%A9%E3%82%8A

 ケルト人の拡散的移動は文化的伝播と移民によるもの、と想像されている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Celts
 ケルト人傭兵は、ハンニバルによるイタリア半島遠征時のものが有名。
https://en.wikipedia.org/wiki/Celtic_warfare

 ケルト人の大移動
https://en.wikipedia.org/wiki/Celts (←大移動の図は邦語ウィキペディア(上出)よりもこちらの方がよい。)
の原因はよく分からないわけですが、彼らが滅法好戦的な人々であったことは確かなようです。
 「まがい物」ゲルマン人たるフランク族(後述)とローマ化したケルト人(ガリア人)の組み合わせのフランスに対するに、純粋ゲルマン人たるアングロサクソンとローマ化を殆どしなかったケルト人(ブリトン人)の組み合わせのイギリスとじゃ、神がかりのジャンヌダルクのせいで最後に勝利できた100年戦争を除き、フランスが負け続けたのは当たり前かもしれませんね。

 〇ギリシャ人の南下と東方遠征

 「アカイア<(akhaia)人は、>・・・ 紀元前<2000>年ごろギリシアに南下して、テッサリアからペロポネソス地方に定住したギリシア人。ミケーネ文明を発達させた。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%A2%E4%BA%BA-24219#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
 「ミケーネ文明は、紀元前1450年頃、<ペロポネソス半島の>アルゴリス地方で興り、ミノア文明と同じく地中海交易によって発展した。ミノア文明との貿易を通じて芸術などを流入し、ついにはクレタ島に侵攻、征服したと考えられる。・・・
 。紀元前1150年頃、突如勃興した海の民によって、ミケーネ、ティリンスが破壊され、ミケーネ文明は崩壊した。これは後にスパルタを形成するドーリア人の手による。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%8D%E6%96%87%E6%98%8E 
 「イオニア人<(Íōnes)は、>・・・紀元前2000年ころにバルカン半島を南下し、ギリシャ中部やアナトリア半島(小アジア)北西部に定住したとされるアカイア人の一部。・・・代表的なポリスはアテナイである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BA%BA
 「アイオリス人<(Aioleis)は、>・・・紀元前3000年頃にドナウ川流域から移住してきたと考えられている。紀元前2000年頃に、ギリシャ本土中部テッサリアとボイオティア地方からレスボス島に移住し、さらにアナトリア半島西部に植民し、12のポリスを建設した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B9%E4%BA%BA
 「ドーリア人<(Dories)は、>・・・アイオリス人、イオニア人と並ぶ古代ギリシアを構成した集団のひとつ。紀元前1100年頃ギリシャに侵入し、主にペロポネソス半島に定住した。ギリシア語のドリス方言を話し、代表的な都市はスパルタである。・・・
 数世紀後にはさらにアナトリア半島沿岸部やシチリア、南イタリアなどの広範囲に植民した。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA

 ギリシャ人の南下の原因については、青銅器時代の変遷との関連が示唆されています
https://en.wikipedia.org/wiki/Greeks
が、腑に落ちません。
 それはそれとして、紀元前334年からの、マケドニアのアレクサンドロス3世の東方遠征
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%B93%E4%B8%96
は、アケメネス朝ペルシャによって奪われたアナトリア半島沿岸部の奪回作戦が同朝の滅亡をもたらした、と解することができ、要は、その千数百年前から始まったギリシャ人の大移動の最終段階、と見てよいでしょう。

 (2)ゲルマン人

 随分昔に、ほぼタキトゥスの『ゲルマニア』だけに拠ってゲルマン文化論を書いたことがあります(コラム#省略)が、タキトゥスへの言及も出て来るところの、二つの英語ウィキペディアに拠って、改めて、ゲルマン文化がいかなるものであったかを押さえておきたいと思います。

 「ゲルマン人の諸集落は、通常小さく、10家族を超えることはほとんどなく、それよりも少ないことがよくあり、普通、森林を切り開いた場所にあった。・・・

⇒平素は、殆ど、バラバラに住んでいた、というわけです。
 ずっと以前にも記したように、彼らは、生来的個人主義者達だった、と私は見ています。(太田)

 ゲルマン人は、農業と畜産の両方をやっていたが、乳製品群の採取源、及び、富と社会的地位・・当該個人の所有数によって計られた・・の基盤、の双方において極めて重要だった。
 食物は、農耕と畜産の諸産物によって成り立っており、ごくわずかの量が狩猟によっても供給されていた。
 最も一般的な農業諸製品は大麦と小麦であり、平らな形のパンを焼いたりビールを醸造したりするために使われた。・・・

⇒典型的な麦農業を実践していたということです。(太田)

 はっきりしていることは、ゲルマン人の戦争の観念は、古代ローマや古典ギリシャが戦った諸対陣戦(pitched battles)とは全く異なっていたことだ。
 ゲルマン人諸部族は、諸襲撃(raids)に焦点をあてていた。
 かかる、多様な規模の戦争、というのは、蛮族(barbarian)文化の他と区別されるところの様相だった。
 これらの戦争の目的は、一般に、領域を獲得するためではなく、諸資源を獲得し威信を確保するためだった。

⇒後述する理由から、「威信」の「確保」が主目的だった、と、私は見ています。(太田)

 これらの諸襲撃は、10人から約1000人の集団の、しばしば、家族ないし村落諸単位でもって形成されたところの、非正規諸部隊によって遂行された。・・・
 典型的なゲルマン人軍は、例えば100人くらいで構成され、その唯一の目標は、近傍のゲルマン人ないし異邦人の村落を襲撃することだった。・・・
 諸陸軍は、50%を超える非戦闘員達でもってしばしば構成されていた。
 というのも、老人達、女性達、そして子供達からなる避難民達(displaced people)が兵士達の大諸集団と共に旅をしたからだ。

⇒留守中に他のゲルマン人に襲撃される恐れがあったからでしょうね。
 これは、女性達を含め、家族全員が襲撃に協力したり間近で声援を送ったりしたことを意味します。(太田)

 自分達の家来達のためにたっぷり略奪品を確保できる戦争指導者達は近傍の諸村落から戦士団達を惹き付けることによってどんどん勢力を拡大することができた。・・・
 ・・・彼らは、・・・自分達の神々に祈願をし、自ら努力をすることによって、超人的な力を身に着け、戦闘中に守られるようになる、と信じていた。
 このような決意は、彼らをして、このような流儀で死ぬことは英雄的であって、この斃れた戦闘員は、ワルキューレ達(Valkyries)<(注6)>として知られる処女戦士達によって抱擁されるであろうところのヴァルハラ(Valhalla)<(注7)>、に向かって真っ直ぐに運ばれる、と信じさせた。・・・

 (注6)Walküre。古ノルド語ではヴァルキュリャ(valkyrja)。「北欧神話において、戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性、およびその軍団のことである。戦場で死んだ者の半分をオージンの治める死者の館ヴァルホルに連れて行く役割を担う。ヴァルホルでは、死んだ戦士たちは終末戦争ラグナロクに備える兵士エインヘリャルとなるが、ヴァルキュリャは彼らに蜜酒を与える給仕ともなる。また、ヴァルキュリャは英雄をはじめとする人間たちの恋人としても登場し、そのような場合は王族の娘として描かれることもある。ワタリガラスを伴って描かれたり、また白鳥や馬と結び付けられることもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AC
 (注7)Walhalla。「北欧神話における主神オーディンの宮殿。古ノルド語ではヴァルホル(Valhöll、戦死者の館)という。・・・この宮殿には、540の扉、槍の壁、楯の屋根、鎧に覆われた長椅子があり、狼と鷲がうろついているという。これは、戦場の暗喩である。館の中では戦と饗宴が行われ、ラグナロクに備える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%A9
 ラグナロク(Ragnaøk)。「北欧神話の世界における終末の日のこと・・・神々と死せる戦士たち(エインヘリャル)の軍は皆甲冑に身を固め、巨人の軍勢と、ヴィーグリーズの野で激突する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%AD%E3%82%AF

 ゲルマン人のイデオロギーと宗教的諸慣行は、かなりの部分、戦争、それが神(神々)の「血の犠牲」をもたらしたことから、とりわけ、戦場における英雄的死の観念、によって覆われ(pervaded)彩られていた。・・・

⇒襲撃の目的は「諸資源の獲得」ではなく、有能な戦争指導者の下で自分も最善を尽くして戦い、その結果として自分が戦死することこそが目的なのであって、「諸資源の獲得」は、この目的が達成できなかった時に得られる残念賞のようなものだ、と見てよいのではないでしょうか。
 考えてもみてください。
 印欧語族の故地を離れたゲルマン人が北欧に定着したのは、そこで自給生活ができるからこそであったはずであり、そもそも、彼らは、襲撃に出かける必要性などなかったはずですよね。
 更に言えば、ゲルマン人においては、戦うことが自己目的化していた、ということであって、戦うことの目的は何であっても構わなかった、ひいては、戦う相手が人ではなく、自分が犠牲になる可能性さえあれば、動物や自然であっても構わなかった、ということだったのではないか、と思うのです。(太田)

 ・・・古代のゲルマン人の生活の種々の諸要素は、血縁関係の役割を弱める傾向があった。

⇒血縁関係が重視されないという意味でもゲルマン文化は極めてユニークでした。
 もとより、個人主義というのはそういうものであるはずですが・・。(太田)

 すなわち、軍事酋長達を取り巻く従者達こそ重要であったこと、さほど近しい関係のない人々を団結させる強力な・・・能力<を>・・・指導者達<が持ち合わせていたこと>、恒久的分裂へと導きかねない部族内の諸決闘その他の諸紛争<が頻発したこと>、により・・。

⇒強力な能力を持ち合わせた指導者達が出現した理由は、全く不思議ではありませんよね。(太田)

 従者達・・古代ローマの著述家達の慣行に従い、学者達によって、しばしば、「コミタトゥス(comitatus)」と呼ばれた・・は、特定の酋長に付き従う者達によって構成されていた。
 酋長は、軍事等の諸役務を従者に依存し、酋長は、それの見返りに、必要なものを提供すると共に、戦闘の諸戦利品を両者の間で分割した。
 この、酋長と彼に付き従う者達との関係が、中世の欧州で発展したところの、より複雑な封建制度の基盤となった。
 特定の酋長の従者は近しい血縁者達を含む場合もあったが、彼らに限定されたわけではない。
 やがて、ゲルマン人の諸部族や連合の軍事指導者達の中の個々の酋長達や王達の次第に高まる権力が、部族諸集会がかつて享受していた権力を、縮減したり様々な形で置き換えたりするに至った。
 ゲルマン人の親族の中では戦闘の際の倫理規範が確立していた。
 タキトゥス(Tacitus)によれば、ゲルマン人諸部族の中の特定の氏族(clan)の戦士が負わされる最大の不名誉(disgrace)は、戦闘中に自分の盾を捨て去ること<(注8)>だった。

 (注8)古典ギリシャや古代ローマでは、盾は密集陣形において自分を守るためではなく、隣の同僚兵士を守るために用いられた。
https://books.google.co.jp/books?id=FH1fDQAAQBAJ&pg=PA267&lpg=PA267&dq=abandon+one’s+shield&source=bl&ots=ph5FP87MI8&sig=ACfU3U1IolhQgeP5HnxDbYV76FsWyLPRJw&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwizmpTEnZHkAhVLFqYKHZYWB-c4ChDoATADegQICRAB#v=onepage&q=abandon%20one’s%20shield&f=false

 これをすると、ほぼ間違いなく村八分にされた。
 部族的なゲルマン人社会の中では、彼らの社会的ヒエラルキーは戦争と本質的に結び付いており、この戦士規範が諸首長達と彼らの若き戦士達との間の忠誠(fidelty)を維持させていた。・・・

⇒ある意味繰り返しになりますが、これは、ゲルマン人社会が、戦うことが自己目的化した社会だったからなのです。
 これは、インド・アーリア人の好戦性に比して、更に徹底した好戦性であると言えるでしょう。
 なぜなら、インド・アーリア人の場合は、「自分のダルマを果たすべき」時に限って好戦性を発揮するものとした(コラム#10767)のであり、クシャトリヤならぬ、そんなダルマとは無縁であった、女性や老人・子供にも、また、バラモンにもヴァイシャにもシュードラにも、好戦性は求められていませんでした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%A4 を踏まえた私の理解  (太田)

 タキトゥスは、いかに、諸戦闘中、ゲルマン人戦士達が彼らの妻達や母親達によって激励され世話されたかを描いている。
 彼はまた、平時においては、女性達が家政の大部分を行う、と記している。
 その子供達と一緒に、彼女らは、明らかに、家事の大部分もまた行った。・・・
 家庭には、両親と子供達のほか、奴隷達がいる場合もあったが、奴隷の存在は一般的ではなく、・・・奴隷達は、通常、自分達自身の諸家庭を持っていた。
 この奴隷達・・通常戦争捕虜達だった・・は多くの場合、家庭内召使として雇われた。
 一夫多妻制も蓄妾も稀だった。・・・

⇒これも繰り返しになりますが、ゲルマン人達は個人主義者達だったのです。
 当然、男女は平等でしたし、奴隷らしい奴隷もいなかったわけです。(太田)

 やがて、最終的には<、フランク族(後出)のカロリング朝の>シャルルマーニュ(Charlemagne)によって、何次もの諸戦役・・ザクセン諸戦争(the Saxon Wars)・・を通じて、成功裏に完結されたところの、多くのゲルマン諸部族のキリスト教<(ローマ法王のアタナシウス派キリスト教(太田)>への改宗が、武力でもって成し遂げられた。

 これは、同時に、ザクセンの諸領域をフランク帝国に編入することにもなった。
 諸殺戮・・血腥いヴェルデンの評決(Bloody Verdict of Verden)<(注9)>では、シャルルマーニュの年代記群の一つによれば、4,500人もの人々が首を刎ねられたとされる・・は、かかる政策の直接の帰結だった。・・・
 古代ローマとの広範な接触が部族的なゲルマン人社会の平等な構造を改変した。・・・」
https://en.wikipedia.org/wiki/Germanic_peoples

 (注9)782年10月のMassacre of Verden。1935年にナチスドイツがこの地に記念碑を立て、シャルルマーニュの行為を称えた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Massacre_of_Verden

⇒キリスト教に改宗したゲルマン人が、それまでやったことがない、大量虐殺を開始したわけです。
 爾後、異教徒や異宗派信徒に対して、プロト欧州文明や欧州文明のゲルマン人系の支配者達が同様の虐殺を繰り返していくことになります。
 第一次十字軍(注10)、アルビジョア十字軍(注11)、ユグノー戦争(注12)、三十年戦争(注13)、の際の虐殺がそうであり、この系譜に位置付けられるのが、スターリンによる国内反対派の虐殺であり、ナチスドイツによるユダヤ人のホロコーストです。

 (注10)「エルサレム攻囲戦(・・・Siege of Jerusalem)は、1099年6月7日から7月15日まで、聖地エルサレムを舞台に戦われた、第1回十字軍の主要な攻城戦の一つ。最終的には十字軍がファーティマ朝軍を破り、聖地を占領することに成功した。・・・
 ムスリムの市民の多くは、アル=アクサー・モスク、岩のドーム、神殿の丘などに逃げた。・・・1万人が殺された。・・・彼らのだれも生き残らなかった。女も子供も容赦はされなかった。・・・
 ユダヤ人の守備隊や市民はシナゴーグに逃げたが、フランク(西洋人)が建物ごと火を放ち、中の全員を焼き殺した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%AC%E3%83%A0%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6_(1099%E5%B9%B4)
 (注11)アルビジョア十字軍(Croisade des Albigeois。1209年~29年)は、「1209年、南フランスで盛んだった異端アルビ派(カタリ派と同義、南フランスの都市アルビからアルビ派と呼ばれた)を征伐するために、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍。・・・
 他の十字軍と同様、宗教的理由と領土欲の両方により主に北フランスの諸侯を中心に結成されたが、南フランス諸侯の反撃の中で次第に領土戦争の色合いが強まり、最終的にはフランス王ルイ8世が主導して王権の南フランスへの伸張に利用された。・・・
 最初の十字軍の攻撃は7月21日にベジエに対して行われ、翌日にベジエは陥落した。十字軍は約1万人の住民をアルビ派であるか否かにかかわらず無差別に殺戮した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A2%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
 (注12) 「ユグノー戦争(Guerres de religion。1562年~98年)は、「フランスのカトリックとプロテスタントが休戦を挟んで8次40年近くにわたり戦った内戦である。・・・
 <この戦争は、>宗教上の対立であるとともに、ブルボン家(プロテスタント)やギーズ家(カトリック)などフランス貴族間の党派争いでもあった。加えて、この戦争はカトリックのスペイン王フェリペ2世とプロテスタントのイングランド女王エリザベス1世との代理戦争の性格も有している。・・・
 1562年にカトリックの中心人物ギーズ公によるヴァシーでのユグノー虐殺事件(ヴァシーの虐殺)が契機となり、内乱状態になった。妥協的な和平を挟んだ数次の戦争の後の1572年8月24日には、カトリックがユグノー数千人を虐殺するサン・バルテルミの虐殺が起こっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E6%88%A6%E4%BA%89
 (注13)「1618年から1648年に戦われた国際戦争。ドイツとスイスでの宗教改革による新教派(プロテスタント)とカトリックとの対立のなか展開された最後で最大の宗教戦争・・・
 長期間にわたる戦闘や傭兵による略奪でドイツの国土は荒廃し、当時流行していたペスト(黒死病)の影響もあって人口は激減した。戦前の1600万人が戦後は1000万人となった。ただし、死亡者のみでなく、移動した数も含まれる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89

⇒この、フランク族、とはいかなるものだったか、ということが極めて重要である、ということを後述します。(太田)

 「メロヴィング朝のガリア(Gaul)等の諸国では、法王庁<・・要は、古代ローマ(太田)・・>からの大いなる影響下で、ゲルマン人の継承を決したところの選挙原則が放棄され、血統による継承と統治王朝の神聖な権利が認められた。
 <他方、>アングロサクソンのブリテンでは、この原則がノルマン・コンケストが<一時的に(太田)>除去されるまで生き残り続けた。・・・
 また、この原則は、他の様々な形態で・・・生き残り続けた。
 ・・・神聖ローマ帝国における選挙侯制度が、この遺産の一つの例だ。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Germanic_kingship

⇒アングロサクソンは、征服したブリトン人が既にキリスト教徒であったかキリスト教の影響を受けていた人々だったので、彼らを通じてキリスト教化していった(典拠省略)ことから、異教徒、異宗派信徒に対する虐殺の「伝統」とは無縁であり続けた・・十字軍にノルマン朝の騎士達が参加した際の虐殺を除く・・点が欧州のゲルマン人系の人々との大きな違いの第一点であり、議会主権か君主主権か、というのが、大きな違いの第二点である、と言っていいでしょう。(太田)

4 過去の諸帝国の限界
 
 (1)秦・漢、唐、明 

 いずれも、基本的に、漢人文明という特定文明の辺境を自然国境化しただけであって、基本的に、支配領域の拡大を目指したとわけではありません。
 (清の場合は、漢人文明、女真文化、蒙古文化、チベット文化の辺境を自然国境化しました。)
 自然国境外に関しては、柵封体制がとられました。↓
 
 「周辺諸国が冊封体制に編入されると、その君主と中国皇帝との間には君臣関係が成立し、冊封された諸国の君主は<支那>皇帝に対して職約という義務を負担することとなる。職約とは、定期的に<支那>に朝貢すること、<支那>皇帝の要請に応じて出兵すること、その隣国が<支那>に使者を派遣する場合にこれを妨害しないこと、および<支那>の皇帝に対して臣下としての礼節を守ること、などである。これに対して<支那>の皇帝は、冊封した周辺国家に対して、その国が外敵から侵略される場合には、これを保護する責任をもつこととなる。このような冊封された周辺国家の君主は、<支那>国内の藩国や官僚が内臣といわれるのに対して外臣といわれ、中国国内の藩国を内藩というのに対して外藩とよぶ。そして内藩では<支那>の法が施行されるが、外藩ではその国の法を施行することが認められ、冊封された外藩の君主のみが中国の法を循守する義務を負うことになる。・・・
 朝貢とは,藩属国の使節が皇帝に朝見して土産の産物を献上することをいうが,これに対して皇帝は回賜として貢物以上の返礼物を与えて皇帝の威徳を示したから,朝貢は君臣関係を表す政治的儀礼であると同時に,貿易の一形態でもあった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%86%8A%E5%B0%81%E4%BD%93%E5%88%B6-169719

 これは、安全保障をカネで買うシステムであって、形式的にはともかく、実質的には支配領域の拡大を追求したものでは必ずしもないわけです。

 (2)フンやモンゴル

 それぞれ、アッチラ、チンギス・ハーンという傑出した遊牧民指導者が諸遊牧民兵士達を糾合して支配領域を拡大しただけであり、この初代指導者の死で概ね、拡大期の終焉を迎えました。
 支配領域の拡大は、権力、財、そして、女、でした。↓

 「ある日、チンギス・カンは重臣の一人であるボオルチュ・ノヤンに「男として最大の快楽は何か」と問いかけた。ノヤンは「春の日、逞しい馬に跨り、手に鷹を据えて野原に赴き、鷹が飛鳥に一撃を加えるのを見ることであります」と答えた。チンギスが他の将軍のボロウルにも同じことを問うと、ボロウルも同じことを答えた。するとチンギスは「違う」と言い、「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」と答えた。(モンゴル帝国史)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3

 このタイプの支配領域の拡大が長続きしないのは、拡大目的が指導者の個人的快楽追求のためなので、この指導者が死んだり、この指導者の快楽の限界効用がゼロになったりした時点で、拡大要因が消滅してしまうからです。

 以上がモンゴロイドで、以下がコーカソイドです。

 (3)ギリシャ 

 マケドニアのアレクサンドロス3世による支配領域の拡大は、定着民の指導者が定着民の兵士達を率いて支配領域を拡大し、その指導者の死で概ね拡大期の終焉を迎えたという珍しい例です。
 しかし、それは、以前の(同じインド・ヨーロッパ語族が支配者であった)アケメネス朝ペルシャの最大版図
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B1%E3%83%A1%E3%83%8D%E3%82%B9%E6%9C%9D
と全く同じで、以後の(やはり同じインド・ヨーロッパ語族が支配者であった)サーサーン朝ペルシャの最大版図
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%9C%9D
ともほぼ同じ・・マケドニア、アナトリア西部の「代わりに」ペルシャ湾西岸全域とイエメン・・であり、これを画期的偉業と見るのは錯覚である、と言うべきでしょう。
 それもそのはずであり、そもそも、アレクサンドロスは、父親のピリッポス2世が「ペルシア遠征を目指したが、・・・暗殺され<たため>、ペルシア遠征の大事業<を>・・・引き継<いだ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%9D%E3%82%B92%E4%B8%96
という経緯があるからです。
 ピリッポスの動機は不明ですが、スパルタを除き、全ギリシャを統一した彼(上掲)が、ペルシャに奪われた、アナトリア半島の西の沿岸のギリシャ人地帯の回復を目指したのであると思われ、この目的を達成するためには、再びペルシャに奪回されることを防ぐべく、ペルシャ自体を打倒する必要があったからでしょう。
 逆に言えば、ペルシャさえ打倒できれば、それ以上の拡張を行う理由はなくなるわけです。
 これが、アレクサンドロスが、「インダス川を越えてパンジャブ地方に侵入し、・・・更にインド中央部に向かおうとしたが、部下が疲労を理由にこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく兵を返すことにした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%B93%E4%B8%96
時の、部下達の真の気持ちだったはずです。

 (4)ローマ 

 ローマ文明なる特定文明を継受させつつ支配領域を拡大し コーカソイド分布地域のほぼ西半分からなる大帝国を築きましたが、ゲルマン人とパルティア(注14)/サーサーン朝ペルシャが拡大を阻止し、東部国境を脅かし続けたために、北方のスコットランドとアイルランド地域への拡大も果たせませんでした。
 すなわち、ライン川(ゲルマン人(後述))とレバント(パルティア/サーサーン朝ペルシャ(注15))、そして、大ブリテン島内の長城(注16)が境界線になったのです。

 (注14)パルティア:「成立 前247年頃? <滅亡>228年頃
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2
 「パルティア戦争(パルティアせんそう、英: Roman–Parthian Wars)は、古代ローマとアルサケス朝パルティアとの間で戦われた戦争を指す。8度に渡って干戈を交えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89 前掲
 (注15)260年:「シャープール1世、エデッサの戦いでローマ軍と戦い、ウァレリアヌスを捕える。・・・363年:シャープール2世、ユリアヌスを敗死させる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%9C%9D
 (注16)ハドリアヌスの長城 2世紀に第14代ローマ皇帝ハドリアヌスにより建設された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%82%B9%E3%81%AE%E9%95%B7%E5%9F%8E
    アントニヌスの長城 <ハドリアヌスの長城よりも北方に、>142年から144年に建設、164年放棄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%8C%E3%82%B9%E3%81%AE%E9%95%B7%E5%9F%8E

 このローマは、どうして大帝国を築くに至ったのでしょうか。
 それは、第一次ポエニ戦争直前の共和制ローマとカルタゴの対峙状況を見れば明らかでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E3%83%9D%E3%82%A8%E3%83%8B%E6%88%A6%E4%BA%89#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:First_Punic_War_264_BC.png
 つまり、共和制ローマの安全を確保するためにはカルタゴの脅威を取り除くことが至上命題だったのであり、「紀元前264年のローマ軍によるシチリア島上陸から、紀元前146年のカルタゴ滅亡まで3度にわたる戦争が繰り広げられた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%A8%E3%83%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
結果、勝利を収めたローマは、その結果として旧カルタゴ領を併合することによって、地中海帝国になったのです。
 では、結果として地中海帝国になってしまったところのローマが、その後、アルプス以北やアドリア海対岸北東方面に領域を広げたのはなぜでしょうか?
 「紀元前6世紀から3世紀にかけてのケルト人拡散」(後述)の結果、ケルト人、すなわち、「ガリア人が、アルプス山脈を越えて・・・イタリア北部・・・に侵入し、エトルリアを通って南方のローマにまで勢力を拡大しようとした」ことに対し、この脅威を取り除く必要が生じたからであり、「紀元前218年から、ローマはカルタゴとの戦争(第二次ポエニ戦争)を始めるが、多くの場合ガリアはカルタゴに味方した<こともあり、>・・・紀元前390年から紀元前193年にかけて・・・共和政ローマ<は、>ガリア人の様々な部族との一連の紛争」に勝利することによって、この目的を達成し、またもやその結果として、領域を北西、北北、北東へと大きく領域を広げるに至るのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
 以上のような、ローマの守勢的な安全保障姿勢は、ブリテン諸島のガリア勢力の脅威除去のために行われたブリテン諸島攻略においても、大ブリテン島全体の支配まであえて行わなかったこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%82%A2
ダキア遠征・併合は、トラキア人のダキアの侵略に対処するためのものであったこと、パルティア遠征とアルメニア/(パルティア領)メソポタミア/(パルティア領)アッシリアの一時的併合とパルティアに「ローマで教育を受けた王弟パルタマスパテスを傀儡君主として立て」るに至ったのは、「東方属州北部におけるパルティアの影響力拡大を、とりあえずは防ぎたいという程度の」動機で行われた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%8C%E3%82%B9
に過ぎなかったのです。

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[ローマ軍の強さ]

 「・・・<ローマ軍の特徴は、>マニュアル主義、兵站重視、高度な機械化、大量の兵士、愛国心・・・」にある。
https://ncode.syosetu.com/n4452cm/9/
 「・・・共和政初期、中期<において、>・・・司令官である執政官自体が1年の任期ごとに交代する状況に対応して、指揮系統の混乱を避けるためにも陣営の設営などをマニュアル化する必要<があった。>・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E8%BB%8D%E5%9B%A3

⇒マニュアル化された軍隊!(太田)

 「・・・大量動員はローマ軍の華でした。共和制期の最大動員力はポリビウスによれば75万人だったそうです。
 実際ポエニ戦争では25万人もの兵を動員していますし、オクタヴィアヌスとアントニウスの内戦では両軍合わせて70万人の兵士がいたそうです。
 これは周辺諸国から比べれば尋常な量ではありません。アレクサンドロス大王は3万人の東征軍を維持することする必死でしたし、ヘレニズム諸国最大のセレウコス朝でさえもマグネシアの会戦では10万人でした。・・・」
https://ncode.syosetu.com/n4452cm/9/ 前掲

⇒共和政時代においては、大量の市民兵の動員が可能。(太田)

 「・・・軍隊の迅速な移動を目的とした舗装されたローマ街道は、・・・紀元前312年<の>・・・アッピア街道が最初である。・・・紀元117年頃には、主要幹線道路は約8万6千km、全ての道路の総延長は29万km(資料により15万kmとする説も)にも達した。・・・標準的なローマ街道の道幅は4mで、2台の馬車が行き違える車道幅であった。その両脇には幅3mの歩道が作られていた。車道部分は最大で深さ2m程度まで掘り下げられ3層構造の路盤となっていた。・・・渓谷や山、岩場などがあってもそれらを迂回するのではなく、架橋やトンネル、切通しを設けることでできる限り直線となるよう建設された。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E8%A1%97%E9%81%93

⇒兵站を極めて重視した、ということは、兵士の数に加えて、物量の多さで勝負した、ということ。(太田)

 「・・・ローマ軍の投石器<(注17)>は非常に強力だったと考えられている。・・・ローマ軍の重さ50グラムの鉛弾を熟練者が発射した場合のストッピングパワー<(威力)>は、拳銃で発射された.44マグナム弾のストッピングパワーよりもわずかに小さい程度だった。<また、>・・・120メートル離れたところにある人間より小さな標的に鉛弾を命中させられた・・・」
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/052600197/

 (注17)バリスタ(弩砲)(写真あり)。矢や石の砲弾を飛ばす。なお、この典拠では架空のローマ軍と後漢軍の戦いの描写がなされており、面白い。↓
https://hajimete-sangokushi.com/2015/11/14/post-7273/2/

⇒兵器の質も極めて高かったわけだ。(太田)

 「・・・ローマでは、その繁栄の基盤となったのは、紛れもなく素朴で頑健で裕福な中小農民でした。ですから、ローマが国家として最も活力があった時期は、カルタゴと戦ったポエニ戦争の前半まで(とりわけ第2次ポエニ戦争に勝利するまで)といわれています。ローマ人はもともと中小農民を中心とする独立心旺盛な人々で、「自分たちの国は自分たちで守る」という心構えと連帯感を持っていました。そうした気質があってこそ、士気の高い強固な市民軍と「市民は法の前に平等の権利を持つ」という共和政を生む大きな要因となったのです。・・・」
https://toyokeizai.net/articles/-/163065?page=4

⇒共和政時代は、市民兵が自分達自身の安全保障の確保のために戦ったので、彼らの士気もまた高かったということ。(太田)

 「・・・共和制期を通じて将官は民会の選挙によって選ばれた公職を務める者であり、ほとんどの場合、元老院議員であった。一方で百人隊長は部隊内の選挙で選ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E8%BB%8D%E5%9B%A3 前掲

⇒共和制ローマ軍の将官も将校も選挙で選ばれたこと(やこれら候補者達が専門的な軍事教育を受けたわけではなかったこと)は、短所以外の何物でもなかったはずですが、以上の諸長所が、この短所を補って余りあったということでしょうね。(太田)

 なお、この典拠では、共和制ローマが帝政ローマ時代になったのはローマが既に衰亡への道を歩み始めていたからだ、ということが巧みに説明されている。
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[パルティア支配層はゲルマン人?]

 おかしな表題の囲み記事だが、今回の「講演」テーマに係る私の思考過程・・思考道草?・・の一端を示すのが目的であり、「始めに」の続き、と受け止めていただきたい。

 「パルニ族・・・とは印欧語族の出身地である中央アジアの草原の遊牧民部族である。・・・初代パルティアの王アルサケスはパルニ族の出身だったと言われている。アルメニアの歴代志はこの国を印欧系独語を話す部族の派生であると一般に考えられているエフタルと断定している。タジク人もパルニ族に関係が有ると考えられている。タジク人とタキトゥス<言うところの>ゲルマニアに住んでいる人々は・・・血縁的な関係性が証明されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%8B%E6%B0%8F%E6%97%8F
という、該当箇所だけでなく、全てに関して、典拠皆無、のトンデモ邦語ウィキペディアの記述に目を剥いた。
 しかし、気になって、少し調べてみた。
 というのも、ローマによる地理的意味での西欧の完全領域化を阻んだのは北方ではブリテン諸島のケルト人だったけれど、それは、ローマが東北における中欧にいたゲルマン人の襲撃に悩まされて全力での攻撃ができなかったからだと見てよい(典拠省略)ところ、東南の地中海東岸で対峙関係にあったパルティアもまたゲルマン人の国であったとすれば、話全体が極めてすっきりする、と思ったからだ。↓

 「パルニ族(Parni)の元々の故郷は南部ロシアであり、そこから他のスキタイ諸部族と共に移住した。パルニ族は、ダハエ(Dahae)連盟(confederacy)の三つの諸種族のうちの一つだった。
 紀元前3世紀央に、パルニ族はパルティア地方に侵攻し、<アレクサンドロス大王旧領から>独立したばかりのギリシャ人知事達(satraps)を追い払い、新たな王朝を打ち立てた。アルサケス朝(Arsacids)<(パルティア)>だ。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Parni
 「スキタイ人(Scythians)は好戦的な人々であり、その乗馬諸技術、と、馬上からの複合弓(composite bows)の早期から使用でとりわけよく知られている。
 その高度な機動性でもって、スキタイ人は、より鈍重な歩兵達や騎兵からの攻撃に対し、単にステップ地帯への後退するすることによって、凌ぐことができた。
 スキタイ人は悪名高き攻撃的な戦士達だった。
 彼らは、「生きるために戦い、戦うために生きた」のであり、「彼らの諸敵の血を飲み、その諸頭皮をナプキンとして使用した。」・・・
 フランク王国(Franks)のカロリング朝の国王達は、祖先のメロヴィング朝はゲルマン人のシカムブリ族(Sicambri)の出であるとしており(traced)<(注18)>、トゥールのグレゴリウス(Gregory of Tours)は、その『フランク族の歴史』の中で、クロヴィス(Clovis)<(注19)>が洗礼を受けた際の<その長ったらしい呼び名の中に「シカムブリ族」が出て来る旨を>・・・記している。

 (注18)The Carolingian kings of the Franks traced Merovingian ancestry to the Germanic tribe of the Sicambri. を「フランク王国のカロリング朝の国王達は、メロヴィング朝の祖先はゲルマン族のシカムブリ族であるとしており、」とはあえて訳さなかった。
 というのは、「テウデリク3世(Theuderic III, 654年 – 691年)は、メロヴィング朝の8代目の国王(在位:679年 – 691年)・・・<であるところ、そ>の子女とも考えられている・・・ベルトラード(ベルトラダ)<*>・・・の孫娘であるベルトラード(ベルトラダ)<が>ピピン3世の妻となり、カール大帝を筆頭に、・・・7人の子女を儲けた<ことになっていて、*が本当に>テウデリク3世の娘とするならば、カール大帝及びその子孫達は女系ながらメロヴィング朝の血を引くことになり、751年のキルデリク3世廃位によるメロヴィング朝の断絶以後もメロヴィング家の血筋自体は後世に存続したことになる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A6%E3%83%87%E3%83%AA%E3%82%AF3%E4%B8%96
からだ。
 (注19)466?~511年。「メロヴィング朝フランク王国の初代国王(在位481年~511年)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B91%E4%B8%96

 更に、フレデガルの年代記(Chronicle of Fredegar)<(注20)>は、フランク族はシカムブリ族がスキタイ人ないしキンメリア人(Cimmerian)<(注21)>の子孫たる部族であって、紀元11年に、自分達の酋長のフランコ(Franco)を記念して名前をフランク族に変更した、と信じていることを明らかにしている。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Scythians

 (注20)「七世紀のフランク人の年代記に伝統的につけられてきた題名で、恐らくブルグンドで書かれた。著者は知られていないが、16世紀以来はフレデガリウスとされている。年代記は天地創造から開始し、642年で終わっている。一部658年までの事件もあり、いくつかの写本は642年に遡る年代記の要約版を含んでいるが、カロリング朝で追加された節を含んでおり、それは768年小ピピンの死で終わっている。偽フレデガリウス年代記とその続編は、トゥールのグレゴリウスが歴史十書Decem Libri Historiarumで筆を置いた591年以降の期間に関するメロヴィング朝情報を提供する数少ない史料のひとつである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%BD%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E8%A8%98
 (注21)遊牧民たる印欧語族の一つで、BC1000年頃現れ、BC600年頃まで、バルカン半島や現在のウクライナを根拠地にして活躍した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Cimmerians

⇒フランク人にとって、その上位概念たるゲルマン人というのは、(言語を含めた)ゲルマン性を選択し身に着けた人々、という文化的概念であったからこそ、先祖が、かかる意味で非ゲルマン人であったことが明白なスキタイ人やキンメリア人であっても・・その真偽はともかく・・構わなかった・・スキタイ人やキンメリア人はその好戦性・武勇で有名!・・、と私は理解するに至っている。
 なお、フランク人もローマを「襲撃」したことはしたけれど、これは、背後からサクソン人等の種撃を受けてやむなく行ったものであり、もともと、フランク人はローマと接して住んでいたことから、何世紀にもわたって、ローマと密接な関係があったところだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Franks (太田)
 以下、ついでに、スラヴ人についても見ておこう。↓
 
 「<祖先の地>に<とどまり、>広く住んでいた大部分のスキタイ人はゲルマン人と混血してスラヴ人を形成していった。スキタイ人はその国家が<イラン系の遊牧民である>サルマチア人の手によって滅亡すると、<近傍の>農耕民の社会に次々と同化吸収されていったのであ<り、その>サルマチア人もまた<欧州>の中世初期にフン族の侵入により政治的に瓦解し、<近傍>の農耕民の社会に吸収同化されていった。・・・
 スラヴ人は、古代の人々がスキタイ人、サルマチア人、ゲルマン人と呼んでいた人々が混じり合うことにより形作られた・・・と説明<されることもあ>る」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%A4

 よって、私は、スキタイ人・・但し祖先の地にとどまった人々・・もゲルマン人もスラヴ人も、言語が、それぞれ、スキタイ語(注22)、ゲルマン原語、スラヴ原語、であったというだけの違いしかない、極めて似通った人々である、と考えるに至っている。

 (注22)「スキタイ・・・の言語と思われるものの痕跡はオセット語やスラヴ語に残っている。・・・スキタイ国家の一部のスキタイ人は東部辺境で現在のオセチアに侵入して土着の人々を少数支配し、地域全体としてオセット人を形成したと考えられるものの、オセット人の圧倒的大多数のY染色体ハプログループは・・・スキタイ由来ではない。」(上掲)
 また、 「プリンストン高等研究所のパトリック・ゲーリー教授(歴史学)はその著書『The Myth of Nations』(2002年)において「スラヴ人は、古代の人々がスキタイ人、サルマチア人、ゲルマン人と呼んでいた人々が混じり合うことにより形作られた」と説明している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%A4

 要するに、スラヴ人とは、(スラヴ系語なる言語を含めた)非ゲルマン性を選択し身に着けた人々という文化的概念である、ということだ。
 最後に、この囲み記事を完結させるために記しておくが、パルニ族と初期のゲルマン人とは、言語はもちろん、容姿も異なっていた可能性が大のような気がする。(太田)
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5 ゲルマン人の大移動とそのモメンタム

 (1)第一次ゲルマン人大移動–南下

 「ゲルマン人は<紀元前2000年紀中葉から原住していたスカンディナ<ヴィ>ア半島南部および付け根部分を含むユトランド半島、より、>紀元前750年ごろから<進出>を始め、紀元前5世紀頃にゲルマン祖語が成立、その語西ゲルマン語群、東ゲルマン語群、北ゲルマン語群に分化し<、紀元前後には、現在のベルギー、オランダ、北ドイツ、かつてのシュレージエンへと進出した。> 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA#%E3%82%B2%E3% 上掲

⇒そもそも、黒海付近が本来の原住地であったとされる印欧語族中、こんな北の果ての寒冷地で土地も肥沃ではない地域に移動した人々がいたのはどうしてなのか、誰も説明しようとしていません。
 私の仮説は、彼らが、北の果てには何があるのか、興味があり、冒険的な気持ちで北上した、というものです。
 (ステップ地帯を東に向かわなかったのは、彼らが遊牧民化しなかったことから、機動力に制約があったからではないでしょうか。)
 もう一つの可能性は、バスク人同様、彼らが、コーカシアンではあるものの印欧語族ではない、人々であって、印欧語族が生まれるより前から北方に住んでいた人々であることです。
 (なお、バスク人は、・・仮にゲルマン人がかつては印欧語族ではなかったとしても、ゲルマン人とは違って、・・ついに印欧語族化することがなかった(典拠省略)ところです。)
 とまれ、そんな彼らが、再び南下を始めるわけですが、その理由もまた、誰も説明しようとしていません。
 これについての私の仮説はこうです。
 前に記したように、ゲルマン人は、ゲルマン原語を使うところの、戦うこと、冒険を行うこと、が自己目的化した個人主義の人々であった(になった?)ところ、同士討ちよりは、南方の非ゲルマン人の集落を襲撃する方に重点が置かれるようになると、たびたび襲撃を受けた地域の人々は、ゲルマン人に貢納と引き換えに襲撃を免除してもらうようになったり、より積極的にゲルマン性を身に着けゲルマン人化することによって彼らと行動を共にするようになったりし、こうして、次第に、ゲルマン人地域が拡大して行った、というものです。
 これを、広義の移民の範疇に入れた場合、前の方で述べた一般の移民とは全く異なる形態の異常な移民である、と言えそうですね。
 で、この南下について、もう少し具体的に見ていきましょう。
 この図をご覧ください。↓
https://en.wikipedia.org/wiki/Vandals#/media/File:Europa_Germanen_50_n_Chr.svg
 茶色がゴート族、緑がヴァンダル族、橙色がスエビ族、黄緑の南端にいたのがアングロサクソンの祖たる諸族、黄色と赤が後にフランク族と呼ばれることになる人々の祖、といったところでしょうか。
 但し、白いところは無人の地ではなく、ケルト人等がいた、ということを忘れないようにしましょう。
 白くないところにだって、もちろん、ケルト人等もいたわけですが・・、
 さて、ゴート族とヴァンダル族は、スカンディナヴィア南部からBC2世紀より前に移住し、上出の諸地域にBC120年前後に定住しました。
 [いや、もともと、これらの地域にいたのだ、という説もないわけではありません。]
 そして、[この諸地域で、遊牧民の行動様式に影響を受け、]AD2世紀央、この二つの族を中心とするゲルマン人が南東方向に移住を始め、ローマの辺境地帯は大恐慌をきたし、その間、<南西方向の>イタリア半島へのゲルマン人による最初の襲撃まで行われました。
 やがて、330年頃に、ゴート族は、ドナウ川流域のローマ領内にも定住を許され、4世紀後半には、ヴァンダル族もそれを許されます。
 このように、この二つの族は、ローマと衝突が続いた後、ローマとの平和共存状態になり、ここで南下は終わるのです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Vandals
https://en.wikipedia.org/wiki/Goths ([]内)
 スエビ族については、以下の通りです。↓
 「スエビ族は元々、バルト海南部を故地とするという。ローマではバルト海南東海域がスエビの海(Mare Suebicum)と呼ばれた。紀元前から<南下して、(上出の地を指す)>ゲルマニアに住<むに至り>、ローマ領やガリア(現在のフランス)の地へ侵略を繰り返した。ローマでは民族移動時代の前ではゲルマニアに住む民族のうち最強の民族として知られていた。・・・
 紀元前71年ごろにアリオウィストゥス・・・<に>率い<られ>てライン川を渡りガリア人の戦争に介入、ガリア内に一大勢力を築きローマとも関係を持った。紀元前58年にガリア人から救援依頼を受けガリア遠征を開始したカエサルと衝突、ウォセグスの戦いで惨敗してゲルマニアに敗走し<、ローマはガリア全土を領域化し>た。その後、彼が再びガリアに侵入することはなかった。
 <既に南下が終わっていたスエビ族は、こうして、西行も断念した。>・・・
 <このスエビ族は、>長らくゲルマン系として扱われていた<が、>・・・ケルト系民族である<可能性もある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A8%E3%83%93%E6%97%8F
 最後の一文の「意味」は、もう、皆さん、よくお分かりですよね。

 (2)第二次ゲルマン人大移動–ローマ帝国西部征服

  ア ローマ帝国西部の征服

 そんなところへ、AD400年または401年・・これ以降は、断らない限り、ADですからね・・にフン族(注23)の襲撃を何度も受け、まず、ゴート族が西行を始め、不安にかられたヴァンダル族も、同盟関係にあったところの、イラン系のアラン族(Alans)やスエビ族らと共に西行を始め、やがて、彼らは西ローマ内に襲撃しながら入り込んで行きます。
https://en.wikipedia.org/wiki/Vandals 前掲

 (注23)フン族は、[375年に欧州に侵入、]430年までに欧州で大きな領域を支配するに至り、東ローマを荒らしまわった後、西ローマのガリアに侵攻し、これに対して、451年、ローマと西ゴート族が共同して戦ったところ、翌452年にはイタリア半島に侵攻したが、更にその翌453年に、指導者のアッチラが死去したため、フン族の勢力は衰える。
https://en.wikipedia.org/wiki/Huns
https://en.wikipedia.org/wiki/Migration_Period ([]内)
 「近代になって、フン族(Hun)の名称は第一次世界大戦と第二次世界大戦におけるドイツのあだ名として用いられた。1900年の義和団の乱に際してドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が「敵に対してフン族のように容赦するな」と将兵に命じた。この演説が第一次世界大戦の際にドイツ人の野蛮性を強調すべく、連合国に利用された。第二次世界大戦でも、連合国の人々は同じようにドイツ人を形容している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%B3%E6%97%8F

 「それに続く形でブルグント族がフランス北部に、ランゴバルドがイタリアに、アングロ・サクソン人とジュート人がブリタニアに<(すぐ後で詳述)>、アレマン人(ケルト系と深く混血していた)が南西ドイツに侵入してい<きまし>た。
 そして最終的にフランク人というケルト系やスラブ系・ラテン系の民族とゲルマン諸族が連合したグループが西ヨーロッパを担うようになってい<きます>。
 <ちなみに、>ゴート人など初期に移動を開始した東側のゲルマン人は圧倒的多数派であったローマ人に同化した<けれど>、後発のフランク人はローマ化しつつも一定の影響力を維持<するのです。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%97%8F%E7%A7%BB%E5%8B%95%E6%99%82%E4%BB%A3 

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[傭兵]

 歴史的には、傭兵は、基本的には、ゲルマン人とインド亜大陸人の一部と日本人、と相場が決まっている。↓

 「古代ギリシア、ローマでは当初は市民権を有する者が自発的に軍に参加する市民兵が主力であったが、やがて市民兵制は衰退し、傭兵に頼る割合が増加していった。辺境の民族が傭兵となることが多く、北アフリカ諸部族やガリア人など、のちにゲルマン人の移動が始まると、これを盛んに傭兵として雇ったが、後には国境近辺に定住させ、屯田兵のような形にすることが多くなった。またマラトンの戦いで重装歩兵の威力を知ったペルシア帝国においても多数のギリシア人傭兵が雇用された時期がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%AD%E5%85%B5
 「フン族の侵攻を食い止めたのがローマの支配を受け入れて傭兵となっていたゲルマン人であったように、帝政末期の西ローマ帝国が実質的にはゲルマン系将軍によって支えられていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA#%E3%82%B2%E3% 前掲
 「<欧州の>中世においては、西欧の戦闘の主力は騎士を中心とした封建軍であったが、国王の直属軍の補強や戦争時の臨時の援軍として傭兵が利用された。傭兵となるのは初期にはノルマン人、後には王制の未発達なフランドル、スペイン、ブルゴーニュ、イタリア人などが多かった。ビザンティン帝国では主力としてフランク人、ノルマン人、アングロ・サクソン人傭兵が使われた。・・・
 近世に入ると王権が強くなり、軍隊の維持能力のある国の王は傭兵部隊を中心とした直轄軍を拡大させるようになる(フランス王国におけるスイス傭兵等)。やがて常備軍は自国の兵が中心となるが、戦争が定常的に起こる中、傭兵も大きな役割を果たした(ドイツ傭兵ランツクネヒトなど)。オラニエ公ウィレムが率いたスペインに対する反乱軍も、初期はほとんどがドイツ人傭兵で占められていた。
 海軍が大規模に常備されるようになる以前は、海戦の主力は臨時で雇われる海賊や海運業者たちであった。16世紀から18世紀に盛んになった私掠船も民間船に臨時の私掠免許を与えていただけで、海の傭兵ともいえる。・・・
 17世紀には各国の東インド会社が自国の権益を現地人や他国の東インド会社から守るために傭兵を活発的に雇っていた。・・・そのおもな傭兵の構成員はドイツやスイスの傭兵部隊、そして現地で募った<日本人や>セポイ人、グルカ兵などの傭兵であった。・・・
 日本の武士も古い段階においては傭兵的要素を多分に有していたと言われている。・・・
 徳川幕府による天下統一が成し遂げられ<ると、>戦が無くなった国内に活動の余地がなくなり、日本の武士が多数海外に流出した<ところ、>・・・浪人の中には、山田長政のようにアユタヤ・プノンペンなどに渡り現地の王朝に雇われる者も現れた。・・・<当時、>イギリス東インド会社の傭兵の半数は日本人であった・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%AD%E5%85%B5 前掲
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  イ ローマ帝国旧領(ブリテン島中・南部)の征服

 405年または406年に、ヴァンダル、スエビ等が凍結していたライン川を渡り、ローマ西部への侵攻を開始したところ、大ブリテン島へ彼らが渡洋攻撃してくることを恐れた大ブリテン島駐留ローマ軍は、407年に欧州側に脱出し、その後、アングロサクソンがその襲撃を質量とも増加させ、やがて、大ブリテン島への定住を始めます。
 大ブリテン島の原住民のブリトン人達から救援を求められたローマ皇帝ホノリウスは、それがもはや不可能であるとの返事を彼らに410年に送りますが、これをもって、ローマ領ブリタニアの終焉、とされています。
 そして、アングロサクソンが、ローマ化が不十分で急速に脱ローマ化したブリトン人を支配し、彼らと混淆する中で、ブリトン人はゲルマン性を身に着け(=アングロサクソン化し)、アングロサクソンの方もまた、ゲルマン性を維持し続けることになるのです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Roman_Britain
https://en.wikipedia.org/wiki/End_of_Roman_rule_in_Britain
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Anglo-Saxon_England

 「クローヴィス即位当時北ガリアでは、ローマ人のガリア軍司令官シアグリウスがほとんど独立した政権を維持しており、だいたいのちのネウストリアのあたりを支配していた(ソワソン管区)。486年にクローヴィスはシアグリウスとソワソン付近で戦って勝利し、その支配地域を併合した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E6%9C%9D
というニュース、つまり、ゲルマン人の特定部族の指導者が、ローマ人・・その頂点には、コンスタンティノープル所在の、当時は唯一のローマ皇帝がいた・・の支配を名実ともに奪って領域国家を樹立したというニュースは、アングロサクソンにも伝わったであろうところ、410年より前に、ローマの傭兵として大ブリテン島に定住するに至っていたアングロサクソンはもちろん、それ以降にブリトン人に「招かれ」、或いは、ブリトン人を襲撃した結果として、大ブリテン島に定住するに至っていたところの、アングロサクソンも、同様のことをしようと、いくつもの領域小国家群を建国した、と考えられます。
https://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Northumbria
https://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Kent
https://en.wikipedia.org/wiki/Wessex ←等を参考にした。
 当然、大ブリテン島内に建国された諸アングロサクソン領域小国家は相互に争い続けることとなり、その間にアングロサクソン文明が成立し、アルフレッド大王の時の886年に、彼がアングロサクソン王と称し、ここにイギリスという、その後の地理的意味での欧州史における最古の国民国家が成立するのです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Alfred_the_Great ←を参考にした。

 (3)第三次ゲルマン人大移動–欧州東部:最南部征服

  ア カロリング家による旧西ローマ領外ゲルマン人の征服(ローマ化)

 表記については、以下の通りです。↓

 「カロリング家はピピン2世の時代に全分王国の宮宰を占め、王家を超える権力を持つようになった。
 <彼は、アウストラシアまでフランク王国の支配領域を拡大した。>
 ピピン2世の子カール・マルテル<(シャルルマーニュ)>はイベリア半島から侵入してきたイスラム教徒を・・・732年に・・・トゥール・ポワティエ間の戦い<で>・・・撃退し、カロリング家の声望を高めた。・・・
 <シャルルマーニュ>は730年にアレマン人を、734年にフリース人を征服し領土を拡大した。また733年にはブルグントを制圧した。・・・
 737年に<メロヴィング朝の最後の国王>が死んでから、<シャルルマーニュ>は国王を立てず実質的に王国を統治していた。・・・
 <シャルルマーニュの子のピピン3世は、法王の認知の下、751年にカロリング朝を始め、> 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E6%9C%9D
「773年<、ピピン3世の子の>カール大帝<が>イタリア遠征を<行い>、翌774年には<ランゴバルド王国(注24)の>首都パヴィアが陥落して・・・カール大帝が自らランゴバルド王を兼ねるに至って、ランゴバルド王国は実質的に滅亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%89%E7%8E%8B%E5%9B%BD

 (注24)「8世紀までには、ランゴバルド族の言葉は失われ、固有の装束様式や髪型は消滅していた<が、>ランゴバルド族の文化水準は低<いままだった。>」(上掲)
 国王(アギフルスス=Agilulf)がアリウス派からカトリック(アタナシウス派)に改宗したのは591年にもなってからだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_the_Lombards
 法王の所在地ローマから遥か遠方にあったところの、メロヴィング朝のクロヴィス1世のカトリックへの(多神教信仰からの)改宗・・ゲルマン諸部族長で最初のカトリックへの改宗・・が496年、
https://www.y-history.net/appendix/wh0601-040.html
と、その100年近く前であったことを想起せよ。

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 [ヴァイキングの時代–その原因と進展]

 ヴァイキング(Vaiking=Norseman)とは、スカンディナヴィアに居住していた、主として古スカンディナヴィア(Norse)語を話していた非キリスト教徒たるデンマーク、ノルウェー、スウェーデン人の戦士達であって、798年から1066年にかけて、その故地から欧州の広範な諸地域を襲撃したりこれら諸地域と交易し、かつ、西方を探検した人々。
 一般にノルウェー人は、アイルランド、スコットランド、アイスランド、グリーンランドへ、デンマーク人はイギリス(北部/東部)とフランス(ノルマンディ)とシチリアへ、スウェーデン人はロシアへ、志向した。
 ヴァイキングの拡張(expansion)についての通説は、自分達もシャルルマーニュによって力と恐怖を用いたキリスト教改宗(前述)を強制されるのではないか、と考えて先制攻撃に出た、というもの。
 但し、ヴァイキングは一夫多妻制だったので・・これは、典型的ゲルマン人の対等な男女関係(前出)とは異なるので、ヴァイキングの中でも例外的事例では?(太田)・・、女にあぶれた中下級のヴァイキング達が女狩りのために遠征を始めた、という説もある。
 しかし、史実では、一部には女性狩り襲撃もあったけれど、大部分は各地の修道院が襲撃されたのであり、それには修道院は金目のものがたくさんある割に防備は手薄かったという理由もあるのだろうが、私としては反キリスト教説を採りたい。
 ヴァイキングは、ゲルマン人中、一番最後まで故地に残っていた人々であり、彼らはゲルマン人中、最も純粋なゲルマン人であることに執着する一方、ゲルマン性の核心たる好戦性・冒険性に関しては、比較的希薄な人々であったけれど、純粋ゲルマン性の強制放棄と虐殺の二択を付き付けられ、窮鼠猫を噛む行動に出た、と見るわけだ。
 では、そんなヴァイキングが、どうして、キリスト教に改宗してしまったのかだが、それは、典型例と言ってよいが、ノルマン公国成立の経緯を見れば分かる。
 ヴァイキングは、セーヌ川渓谷襲撃を841年から始めたが、西フランクの王は、911年にノルマンディを封土としてヴァイキングの指導者ロロに与える見返りに、彼とその部下達がキリスト教に改宗した上で、その封土を他のヴァイキングの襲撃から守ることとを約束させた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Normandy ←修道院種撃とノルマン公国成立の部分

 なお、たまたま、8、9世紀、(もともと海軍力が弱体であった)イギリスもフランクも内紛状態にあったことや、イスラム勢力の興隆によって西欧とユーラシア残部との交易路が不安定化したこと、につけいったという説もあるが、これは、補足的な説、と受け止めればいいだろう。
 ヴァイキングが奴隷交易に目をつけた、という説についても同様だ。
 なお、奴隷交易は、ヴァイキングがキリスト教に改宗すると、同じキリスト教徒を奴隷にしてはならないことから、廃れたとされる。
 こうしてキリスト教に改宗したヴァイキングは、12世紀になると十字軍や北方十字軍に参加するようになる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Vikings 

 故地を離れなかったヴァイキング達やバルト地域の人々のキリスト教への改宗も、8~12世紀に行われた。
 あえて聖書中のキリストが悪魔に勝利する部分が強調された結果、改宗に成功したものらしい。
 中には、キリスト教徒たるゲルマン人からもらえる財貨につられての改宗・・ロロの事例!(太田)・・や、指導者達によるところの、箔付けのための改宗、或いは、キリスト教徒たるゲルマン人から襲撃されるのを抑止する目的での改宗、更には、キリスト教の宣教師達には、学識があったし、キリスト教圏での廷臣経験のあった者も少なくなかったので、彼らを顧問的に使うための改宗もあった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Christianization_of_Scandinavia

 要するに、ヴァイキングのキリスト教への改宗は、便宜的かつ世俗的な目的であることが多かったというわけだ。(太田)

 ついでに、随分後のことになるが、デンマークとノルウェーの宗教改革の経緯は以下の通りだ。↓

 「スレースヴィおよびホルシュタイン公クリスチャン(後のクリスチャン3世)はヴォルムス帝国議会にルターの講演を聞いたこともあり、1528年にルター派に改宗し・・・宗教改革を実施しデンマークはルター派の国家となった。カトリックの聖職者は逮捕、追放されるとともに、ルターの友人であるヨハン・ブーゲンハーゲンが教会をルター派に再組織化した(デンマーク=ノルウェーは1537年、ホルシュタイン公国は1542年)。
 1537年に成立した教会法は、デンマーク国教会、ノルウェー国教会、アイスランド国教会、フェロー諸島国教会の共通の根幹となった。また、デンマーク=ノルウェーの宗教改革が引き金となり、クリスチャン3世の孫のクリスチャン4世が三十年戦争に新教国側として参加することになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%EF%BC%9D%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99%E6%94%B9%E9%9D%A9
 「ウェーデンでは、・・・財政難に<対処するための>財政改革から始まった。デンマーク同様に教会領を没収して王領地とし、世俗的な問題は、王の裁判権に服することが1527年のヴェステロース全国身分制議会で決議された。また、ヴィッテンベルクで神学を学んだペーテルソン兄弟が1519年にルターに師事し、帰国後、ルター派の教義をスウェーデンに広めた。1524年にオラフ・ペーテルソンは、・・・カトリック教会から・・・破門された。しかしスウェーデン王グスタフ1世は、彼らを保護し、宗教改革に当たらせた。・・・1527年の身分制議会の決議は、スウェーデンにおけるルター派宗教改革の開始となった。
 オラフ・ペーテルソンは王の側近として、ラルス・ペーテルソンは1531年にウプサラ大司教に任命された。1536年には、スウェーデンの教会が福音派国教会と宣言された。これは後のスウェーデン国教会創設の基礎となった。スウェーデン王国(スウェーデン=フィンランド)の東半分を形成していたフィンランドでは、1528年のオーボ(トゥルク)にルター派の司教が叙階されたのを最初として始められたが、大部分はフィンランド語によって教会改革が成された(フィンランドの教会改革は、1554年にトゥルク司教となったミカエル・アグリコラに総じて負っている)。フィンランドは、1809年にスウェーデンと分離するまでスウェーデン国教会の一部であった。
スウェーデンの宗教改革は、16世紀中は過渡期であったが、1590年代の内戦を通じてプロテスタントが勝利し、1593年にウプサラ宗教会議で、アウクスブルク信仰告白を取り入れた時にルター派であったほとんどの教会はルター派の信条に参加した。当時、カトリックでスウェーデンとポーランドの国王であったジグムント3世はこれらの過程で1598年にスウェーデンから失脚し、1600年にジグムント派のカトリック教徒を粛清することによって、スウェーデンはプロテスタント国家となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E6%94%B9%E9%9D%A9

 キリスト教への改宗が遅れた上、改宗動機が上述のようなものだっただけに、ヴァイキングの故地の国王達は、イギリス起源の宗教改革なる、脱キリスト教機運に乗じて、すぐに事実上の脱キリスト教化を果たした、ということだ。
 この動きは、たまたまイギリスによるそれに先行したところ、祖先がヴァイキングであったこととに加えて、イギリスの元からの反キリスト教的な土壌もあり、ヘンリー8世が、近隣のヴァイキング後継諸国の動向の影響もあって、英国教を樹立した、と見てよかろう。
 北方戦争(Northern War、1655年~1661年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%96%B9%E6%88%A6%E4%BA%89
でのスウェーデンの敗北を最後に、スカンデナヴィア諸国が地理的意味での欧州で最も平和志向の国になったのは、脱キリスト教を果たし、ゲルマン性を取り戻した旧ヴァイキング達が、三十年戦争参戦に続く北方戦争参戦を行ったのは、キリスト教嫌いで拡大を始めたところの、自分達の祖先の初心に戻り、それぞれ、欧州プロパーとロシアの事実上の脱キリスト教化を図ったものであったところ、前者の「勝利」と後者の敗戦によって、いわば好戦性・冒険性を使い尽くし、ゲルマン人の中で最も好戦性・冒険性が希薄だった原点へと回帰した、と見たらどうだろうか。
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  イ ヴァイキングのロシア征服(スラヴ征服1)

 「8世紀中頃、ルーシ族<(注25)>の族長リューリク[・・スラヴ人が自分たちを治める指導者を求めてヴァリャーギ(<=ヴァイキング=>スカンジナヴィア人)<の彼>にすがったとされている・・]がラドガ<(注26)>を支配。彼らの一族は、ドニエプル川やヴォルガ川を下り、東ローマ帝国やイスラム帝国などとの交易網を築く・・・

 (注25)「ルーシ族・・・は、中世東<欧>に侵入したヴァリャーグ<(ヴァイキング)>の内、ルーシ・カガン国やノヴゴロド公国及びキエフ大公国を建国した集団に対して、かつての東スラヴ人が用いた呼称。俗にノルマン人であるとされている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E6%97%8F
 (注26)「ラドガ湖の南、ヴォルホフ川を若干遡った位置にある。・・・8世紀および9世紀<には>・・・東<欧>でも有数の豊かさを誇った交易拠点<だった>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%89%E3%82%AC

 860年、ヴァリャーグが東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを攻撃するも撃退される。・・・
 862年、スラヴ人の懇願を受け、リューリクがノヴゴロドを征服。ノヴゴロド公国(ホルムガルド)の成立と見なされる。
 882年、リューリクの子とされるイーゴリが同族のオレグの後見の元に、キエフ大公国を建設する。・・・
 980年、ノヴゴロド公ウラジーミル1世、ノルマン人を率いてキエフ大公国に帰還。キエフ大公に即位したウラジーミル1世は、親スカンディナヴィア政策を行うが、988年にキリスト教(正教会)を国教に定めた事で、ルーシにおけるヴァリャーグ人時代は彼と共に終焉を迎える事となった。<しかし、>
1019年、スウェーデン王オーロフの王女がノヴゴロド公ヤロスラフ1世と結婚。見返りにスウェーデン貴族がラドガの支配者となる。ラドガは、ヴァリャーグの影響が11世紀まで残った。
 [ロマノフ朝以前の王統をリューリク朝と呼ぶのは、彼らがリューリクの末裔とされているからである。 ]」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AA%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%B0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%AF ([]内)

 リューリクやルーシ族のゲルマン性を疑う説もあるけれど、ゲルマン人とは何ぞや、ということを振り返れば、自分はゲルマン人である、という意識さえ抱いておれば、ゲルマン人なのであり、リューリク朝の首長家の人々は、かかる意識を持ち続けた以上、私に言わせれば、ゲルマン人なのです。
 煩雑なので、いちいち調べませんでしたが、そういう意識でいたとすると、その多くが、ゲルマン人を配偶者に選んだとしても不思議ではありません。
 ランダムに選んでみましたが、例えば、キエフ大公(1073~1076年)のスヴャトスラウ2世(1027~1076年)の母親はスウェーデン王オーロフの娘です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%83%A3%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A62%E4%B8%96
 このリューリク朝は、断絶することとなり、ロシアは、その後は、血統的には非ゲルマン人たるロマノフ朝になるのですが、そのゲルマン性は精神的には失われなかったと思われ、しかも、血統的にも、すぐに回復されます。
 すなわち、ロマノフ朝の初代ミハイル(1596~1645年。モスクワ・ロシア・ツァーリ:1613~45年)
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%83%95 >
から第6代エカチェリーナ1世(在位:~1727年)までは、リューリク朝ともその他のゲルマン人とも血統的には無縁だが、ピョートル1世(1672~1725年。モスクワ・ロシア・ツァーリ:1682~1725年。皇帝(初代):1721~25年)の母親は、タタール系の貴族の家系ながら、養父の下で当時のロシアで最も西欧志向的な環境下で育った人物であった
https://en.wikipedia.org/wiki/Natalya_Naryshkina
ところ、ピョートル自身は、「当初、国政を母ナタリヤらナルイシキン一族に委ねて、相変わらず外国人村を訪ねたり、軍事演習に熱中し、また仲間と馬鹿騒ぎをしながら過ごし・・・1695年に黒海への出口を求めてドン川畔のアゾフへ遠征<を>行<い>、ピョートルも一砲兵下士官として従軍したが、アゾフ要塞包囲はオスマン海軍の活動によって妨げられ失敗に終わった・・・ため、ピョートルは海軍創設に着手し、ドン川畔のヴォロネジに造船所を建設してわずか5か月でガレー船と閉塞船27隻、そして平底川船約1300隻からなる艦隊を造らせ・・・ロシア最初の海軍<を健軍し、更に、>1696年に再度・・・アゾフ遠征<を行い、今度は、>ピョートル自らがガレー船に乗船して戦<い、>水陸共同作戦によりアゾフ<を>陥落<させ>、ピョートルは海への出口を手に入れた。
・・・
 <そして、>1697年3月から翌1698年8月まで、ピョートルは約250名の使節団を結成し<欧州>に派遣、自らも・・・使節団の一員となった。この使節は軍事・科学の専門技術といった<欧州>文明の吸収を目的としていた・・・アムステルダムでは造船技術の習得に専心し、東インド会社所有の造船所で自ら船大工として働いた。病院・博物館・植物園を視察、歯科医療や人体解剖を見学した。<また、>・・・ロンドンでも王立海軍造船所に通い、天文台・王立協会・大学・武器庫などを訪れた。また貴族院の本会議や海軍の艦隊演習も見学した。ピョートルは沢山の物産品や武器を買い集め、1000人の軍事や技術の専門家を雇い入れ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB1%E4%B8%96
といった具合であり、ピョートルは、その好戦性・冒険性からして、まさに、精神的にはゲルマン人そのものであった、と言っていいでしょう。

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[コサック]

 「コサック(Cossacks)<と>は、ゴート族・・とりわけ、そのうち、後に東ゴート族と呼ばれるようになった人々・・の流れをくむゲルマン人とスラヴ人の混淆的存在であって、民主主義的にして自治的な半軍事共同体群<である>。
 イヴァン雷帝(1530~84年。モスクワ大公:1533~47。モスクワ・ロシア・ツァーリ(初代):1547~74、1576~84年)・・やはり、母親にタタール人の血が流れていた・・の時に、カザン・ハン国を併合(1552年)し、更に、アストラハン・ハン国を併合(1556年)<したところ、>「1577年からストローガノフ家の援助で・・・イェルマークがシビル・ハン国征服に乗り出し<ていたのを好機として>、1581年にはイェルマークにお墨付きを与えてシベリア征服事業を推進し」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B34%E4%B8%96
「イェルマーク自身は途中戦死するものの、ついに1598年シビル・ハン国は滅亡した<ところ、>その後<も>ロシア人は東進を続け、[ロマノフ朝初代のミハイルの時の]1636年にはコサックのイヴァン・モスクヴィチンがオホーツク海へ至り、ロシア人はシベリア横断を達成し<、>これ以後シベリアはロシア人の植民地とな<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2
 このイェルマーク([Yermak]。1532~85年)はコサックの統領(アタマン)だったが、彼自身がコサック出身であったかどうかは定かではない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF
ものの、当然のことながら、彼が、ゲルマン人的な好戦性・冒険性に富んだ人間であったことに疑いの余地はなかろう。
 なお、彼の東進の際の軍勢840人の構成は、ロシア人、タタール人、リトアニア人、そして、ドイツ人、だった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Yermak_Timofeyevich
 ちなみに、イヴァン・モスクヴィチン(Ivan Yuryevich Moskvitin。?~?年)の方は、コサック出身で、コサック49名を率いてオホーツクに至り、帰ってきてからコサックの統領(アタマン)になっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%E3%83%B3
 要するに、ロシアの東進は、ヴァイキングを肉体的或いは精神的に祖と仰ぐロシア最高指導者達が、ゴート族を肉体的或いは精神的に祖と仰ぐところの、コサック達を中心とする部隊によって推進された、というわけだ。
 ロシア人一般は、この東進に対し、国への貢納を通じてカネの面で、そして、タタールの軛症候群から、当然のことながら、精神的にも、熱烈な支援、支持をしたことだろう。
 但し、ロシア最高指導者達に、少なからず、そのタタールの血が混じってしまっていたことは、皮肉と言えば皮肉だ。
 その後、ロマノフ朝二代目のアレクセイ(1629~76年。モスクワ・ロシア・ツァーリ:1645~76年)の時、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%83%95%E6%9C%9D
、1654年のペレヤスラフ(Pereyaslav)条約によって、コサックの大部分はロシア統治下に入る。
 彼らは、大北方戦争(1700~21年)
< https://en.wikipedia.org/wiki/Great_Northern_War >
の折、ピョートルの隷下で活躍することとなり、以後、第一次世界大戦に至るまで、ロシアが参戦した全ての戦争で重要な役割を果たした。
https://en.wikipedia.org/wiki/Cossacks
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 先を急ぎますが、「ピョートル2世(1727年 – 1730年) – ピョートル1世の孫」は、「母はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ルートヴィヒ・ルドルフの次女シャルロッテ・クリスティーネ。マリア・テレジアは母方の従姉」であり、これ以降は、ロシア王家(皇帝家)は再び、血統的にも基本的にゲルマン人化したと言っていいでしょう。
 ちなみに、「王家はロマノフ家から<エカテリーナ2世(注27)の出身元である>ドイツ貴族のホルシュタイン=ゴットルプ家に男系が移っており、ピョートル3世以降はホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ王朝と呼ぶのが正しい」とされているくらいです。

 (注27)但し、その「エカチェリーナ2世は<、実は、>リューリク朝のトヴェリ大公アレクサンドル・ミハイロヴィチの子孫・・・であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%AF%E6%9C%9D

 以下、ロマノフ朝第6代のアンナ以下の全皇帝を列挙しておきますが、★をつけた皇帝に至っては、ゲルマン人そのものであることに注意。↓

アンナ(1730年 – 1740年) – イヴァン5世の子
イヴァン6世(1740年 – 1741年) – ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家★、アンナの姪の子
エリザヴェータ(1741年 – 1762年) – ピョートル1世とエカチェリーナ1世の娘
ピョートル3世(1762年1月5日 – 6月28日)- ホルシュタイン=ゴットルプ家★、エリザヴェータの甥 
エカチェリーナ2世(1762年 – 1796年) – ピョートル3世の皇后(アンハルト=ツェルプスト家)★
パーヴェル1世(1796年 – 1801年) – ピョートル3世とエカチェリーナ2世の子
アレクサンドル1世(1801年 – 1825年) – パーヴェル1世の長男
ニコライ1世(1825年 – 1855年) – パーヴェル1世の3男
アレクサンドル2世(1855年 – 1881年) – ニコライ1世の長男
アレクサンドル3世(1881年 – 1894年) – アレクサンドル2世の次男
ニコライ2世(1894年 – 1917年) – アレクサンドル3世の長男
ミハイル(1918年3月2日 – 1918年3月3日) – ニコライ2世の弟(ニコライ2世の退位後、皇位を譲られたが1日で退位した)

 現在のロマノフ家当主まで、以下の通りです。↓

 「現当主ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフは、アレクサンドル3世の弟ウラジーミル大公の家系である。・・・
マリア・ウラジーミロヴナ・ロマノヴァ(1953年 – )
ウラジーミルの娘。夫はミハイル・パヴロヴィチ(ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の曾孫フランツ・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン)
ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフ(1981年 – )
マリアとフランツの間の息子。ロシア皇帝位継承権第1位であると共に、ドイツ皇帝位およびプロイセン王位継承権第8位である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%83%95%E6%9C%9D

 (ヴァイキングのイギリス侵攻(793~1066年)については省略します。
 この間、ヴァイキング(デーン人)がイギリス王位に2度就いていますし、最終的に、ヴァイキング(ノルマン人≒デーン人)がノルマン朝を樹立して、その侵攻時代が終わります。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0 )

  ウ ヴァイキングの南イタリア「征服」:11~12世紀 

 表記中の征服に「」をつけたのは、表記が侵攻によるものでは必ずしもなかったからです。
 イタリア半島を支配したランゴバルトの「非ゲルマン性」について前に触れましたが、その前にイタリア半島を支配した東ゴート王国(497~553年)の下でも、「ローマ文化とゴート文化の融和により生成されるべき独自の文化は育たなかった。その要因として、東ゴート王国が短命であり、かつ平和な時期が短かったこと、住民の大部分が依然として従来のローマ系住人のままであり、ゴート系住人が住民全体の約2%と極めて少数であったこと等が挙げられる。また、<初代の王となった>テオドリックが東ローマの宮廷で育ったこともあり、文化面ではビザンティン文化の影響が強く、<その妻で3代目の王となった>アマラスンタは<その子で2代目の王となった>アタラリックにローマ的な教育を行っていた 」こと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%88%E7%8E%8B%E5%9B%BD
更にまた、「553年に、<東ローマの>ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は東ゴート王国を滅ぼしてイタリアを再度ローマ帝国領とすることに成功し<、この>ユスティニアヌス帝による再征服活動によって、イタリア半島は再びローマ皇帝の支配に服すこととなった<ものの>、565年にユスティニアヌスが死去した後、東ローマ帝国はサーサーン朝ペルシャ帝国との抗争で西方にまで手が回らなくな<り、>この隙をついて・・・ランゴバルド族がアルプス山脈を越えてイタリアへ侵入し、569年に北イタリアを東ローマ帝国から奪い、王国を建国し<。>首都<を>パヴィアに置<いて、>その後も北イタリア・中部イタリアを東ローマ帝国から奪い、ローマ市を包囲するなど、ローマ教皇に圧力を加えた」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%89%E7%8E%8B%E5%9B%BD
という具合であり、イタリア半島は、西欧の他の諸地域とは違って、ゲルマン化しないまま推移したのです。 
 そこへ、「元はノルマンディー公国の住民で<あった>・・・ノルマン人<が>南イタリア到来<(>999年–1017年)<するに至り>」、「ランゴバルト系貴族による反乱<に巻き込まれ、(>1009年–1022年<)、また、>」「傭兵としての奉仕<したりした、(>1022年–1046年<)後、>」、「メルフィ伯領<主となり(>1046年–1059年<)>」、「アヴェルサ伯領<主となり(>、1049年–1098年<)、その後>」、「大部分にギリシャ正教徒が住んでいて、サラセン人の支配下におかれていた・・・シチリア<を>征服、1061年–1091年・・・1130年の占領地の王国昇格」、「アマルフィとサレルノの征服<(>1073年–1077年<)>」、「ノルマン・東ローマ戦争<(>1059年–1085年<)>」、「ナポリの征服<(>1077年–1139 年<)>」、という経緯を経て、「シチリア王位に就いたルッジェーロ2世によってイタリア半島南部の平定が・・・1140年・・・完了し・・・その領域はシチリア島のみならず、ベネヴェント(一時的に占領したことが二度あったが、11世紀半ばには教皇領となった)を除いたイタリア半島の3分の1に及ぶ南部全土、マルタ諸島や北アフリカの一部にまで及ん<だ>」        
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E5%8D%97%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%BE%81%E6%9C%8D 
ことで、イタリア南部のゲルマン化が若干なりとも行われたのです。(注28)

 (注28)以上のほか、スウェーデンのヴァイキングが870年にアイスランドに入植を始め、
https://en.wikipedia.org/wiki/Iceland
彼らが、今度は980年代にグリーンランドに入植を始め
https://en.wikipedia.org/wiki/Norse_colonization_of_North_America
更に、ニューファウンドランド島に、アイスランド出身のレイフ・エリクソン(Leif Erikson。970?~1020?年)が一時入植している。
https://en.wikipedia.org/wiki/Leif_Erikson
 コロンブスに先立つこと500年のアメリカ大陸(付属島嶼)の発見である。

  エ 北方十字軍:12世紀央~16世紀(スラヴ征服2)

 「北方十字軍あるいはバルト十字軍は、カトリック教徒の王であるデンマーク、スウェーデン、ポーランド、そしてリヴォニア帯剣騎士団、ドイツ騎士団によって開始された十字軍のことで、北<欧>およびバルト海沿岸南東の異教徒に対して行われたカトリック教会諸国の同盟<・・要するにゲルマン人連合部隊(太田)・・>による遠征である。
 スウェーデンとドイツによるフィンランド南部、ラップランド、カレリアとルーシ(ノヴゴロド共和国)の正教会地域に対する遠征<(前出)>もまた「北方十字軍」の一部と考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%96%B9%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
 なお、ハンザ同盟(13世紀央~17世紀)・・「中世<欧州>では都市同盟が重要な役割を果たした。周辺の領主に対抗するため、独立意識の高い諸都市が連合し、皇帝や国王も都市連合を意識して権力を行使しなければならなかった。これは世界史上、<欧州>でしか生じていない現象と言われている。ハンザ同盟は都市同盟の中でも規模と存続期間において群を抜いており、また特殊な存在であるとされている・・・ 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B6%E5%90%8C%E7%9B%9F
・・は、時期といい、地域といい、北方十字軍とオーバーラップしており、私は、両者が広義の連携的営みであった、という可能性を、いつか追求してみたいと思っています。

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[ヴェネツィア、ジェノヴァ、フィレンツェ等]

 中世欧州で、都市国家として地中海を舞台に活発な活動を行ったところの、イタリア半島北部の表記については、その歴代指導者達を見る限り、ゲルマン人的血統は全くうかがえない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%A2%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 ←ヴェネツィア共和国https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%A2%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A1%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD ←ジェノヴァ共和国
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Florence ←History of Florence
 これらの諸都市は、ビザンツ帝国ともども、ローマ帝国の後裔であった、と見るべきだろう。
 これが、若干なりともゲルマン化が行われた南部・・経済的後進地域でもあり続けた南部・・との統一イタリアの成立を、その間に存在した法王領の存在とも相俟って、遅らせ、かつ、遅ればせながら統一イタリアが成立した後も、ゲルマン性の十全な発揮ができなかった・・植民地の形成が殆どできなかった・・理由だと思う。
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[イスラム勢力とのせめぎ合い]
 
 表記は、時期的には、第三次ゲルマン人大移動と大幅にオーバーラップしていることに注意されたい。

  ・イスラム勢力の侵攻とイスラム勢力による包囲

 イスラム勢力は、「674年から東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを連年包囲したが攻略できず、キリスト教勢力に対する<東方からの>攻勢は止まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E6%9C%9D
 「<一方、西方からの攻勢だが、シャルルマーニュが、>732年にフランス西部のトゥールとポワティエの間で、フランク王国とウマイヤ朝の間で起こった・・・ツール・ポアティエ<間>の戦い<で勝利し、>・・・その後<、>735-739年にかけてウマイヤ軍は侵攻したがマルテルにより撃退され撤退し・・・ウマイヤ軍は退却し、ピレネー山脈の南側まで戻った<ことで、>キリスト教勢力に対する攻勢は<完全に>止ま<る>。」<(注29)>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 (注29)「<シャルルマーニュ>は、騎兵に農民付きの土地を与えて忠実な直属騎兵隊を創設しようとした。全土の3分の1を占めていた教会領の没収を強行して、騎士に貸与(恩貸)したのである。このようにして、土地を貸与する(これを封土といった)ことによって臣下に服従(奉仕)させるという主従関係が、フランク王国の新しい支配の制度となっていった。これが封建制度である。」(上掲)

 次いで、「<チンギス・ハーンの孫の>フレグが樹立したイル・ハン国は1295年にイスラム王朝化してしまった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%B3%E6%9C%9D
し、チンギス・ハーンの長男ジュチが樹立したジュチ=ウルス(後の、俗称、キプチャク・ハン国)も、最初から「トルコ系のキプチャク族が大半を占めて<おり、>・・・ジュチ=ウルスのモンゴル人は言葉も容貌も急速にトルコ化し、さらにバトゥの弟ベルケの時・・全盛期<だった>14世紀前半・・からイスラーム化が始まった」
https://www.y-history.net/appendix/wh0403-022.html (コラム#10777)
ことによって、ペルシャはイスラム化し、ロシアもまたイスラム勢力に従属化した上イスラム世界に取り巻かれてしまう。
 (この態勢は、欧州東南部を侵食したオスマントルコが1453年にコンスタンティノープルを陥落させた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E3%81%AE%E9%99%A5%E8%90%BD
ことで、東方からの脅威が増した形で固定されてしまう。)

 とまあ、そういうわけで、14世紀前半には、欧州、すなわちゲルマン人、は、イスラム勢力に完全に包囲された状態に陥ってしまう。

  ・イスラム包囲網への挑戦

 ゲルマン人の好戦性・冒険性の矛先が、この包囲網の打破に向けられたのは当然のことだった。
 その手始めが、時間的には前後するが、西方におけるレコンキスタ(718~1492年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF
(後述)であり、次いで始まったのが、東方における十字軍(1096年~1272年) 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
であり、そのどちらも、従事したのは、文字通り、ゲルマン人だった。
 欧米の通説が、ゲルマン人の大移動を375年のフンの欧州侵攻から始まったとしているのも、また、668年のランゴバルト族(前出)によるイタリア征服、ないし、700年から800年の間のいつか(?!)、で終わった、としている
https://en.wikipedia.org/wiki/Migration_Period 前掲
のも、どちらも、極めて不自然である、と私には思えてならない。
 なお、以下のような次第で、包囲網中の欧州の南東部は残ったままで、地理的意味での欧州は第一次世界大戦を迎えることになる。↓

 「1529年、スレイマン1世率いるオスマン帝国軍が、2ヶ月近くにわたって神聖ローマ帝国の皇帝にしてハプスブルク家の当主、オーストリア大公であるカール5世の本拠地ウィーンを取り囲んだ包囲戦。オーストリア軍の頑強な抵抗によりウィーンの陥落だけは免れた。・・・
 オスマン帝国はその後も攻勢を続け、カール5世は1538年のプレヴェザの海戦でオスマン帝国海軍に敗退し、<欧州>世界は地中海の制海権を失ってしまう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%8C%85%E5%9B%B2 (コラム#10805)
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[英仏百年戦争]

 1337年11月1日~1453年10月19日の英仏百年戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
は、イスラム包囲網が完成されたために、ゲルマン人の好戦性・冒険性が欧州内に封じ込められたことによって起こった、というのが私の見解であり、この戦争にイギリスが敗北したことで、(スコットランドのことはさておくとして、)イギリスと欧州との間にドーバー海峡という自然国境が成立したことから、アングロサクソン文明を地理的意味での欧州全域が総体継受する可能性がなくなり、爾後、地理的意味での欧州においては、アングロサクソン文明と欧州文明(その延長たるロシア文明を含む)が対峙する時代が現在に至るまで続くことになる。 
 なお、以下述べるように、英仏百年戦争の末期と、戦争後にある意味必然的に起こったイギリス内での薔薇戦争は、私が、以下展開する、第四次ゲルマン人大移動の開始に決定的な影響を与えることになる。
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 (4)第四次ゲルマン人大移動–地理的意味での欧州外へ

  –ポルトガル–

 ポルトガルにおけるレコンキスタもポルトガル王国の成立そのものにも、イギリスのノルマン朝が関わっています。↓

 アフォンソ1世(Afonso I。1109?~1185年)の事績は以下の通りだ。
 「ポルトゥカーレ伯のアフォンソ・エンリケスは、1139年にオーリッケの戦いでムラービト朝を破ったことをきっかけに自らポルトガル王アフォンソ1世を名乗り、カスティーリャ王国との戦いの後、ローマ教皇の裁定によって・・・、1143年にカスティーリャ王国の宗主下でポルトガル王国が成立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB
 「1147年・・・5月にイギリス方面から第2回十字軍<([1147~48年])>に参加するため出航していた分派<(注30)>がポルトガルに寄港した時、アフォンソは彼らと協定を結んだ。

 (注30)「<イギリスと>ノルマンディーはスティーヴン王</公>の無政府時代のため、まとまった出兵は行えなかったが、各々の騎士達がスコットランド、フランドル勢と共に船で出立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E5%9B%9E%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D ([]内も)

 ポルトガル軍と十字軍の分派は17週間にわたってイスラム勢力の支配下にあるリスボンを包囲し、同年10月25日にリスボンを占領する・・・。リスボン攻略後も十字軍<・・要するにゲルマン人連合部隊(太田)・・>の艦隊はしばしばポルトガルを訪れ、レコンキスタに協力した。
 <アフォンソは、>リスボン攻略後、イスラム勢力に対抗する防衛拠点を強化するためにテージョ川流域への植民を試み、シトー会にリスボンとレリアの間の無人地帯への植民を委任した。しかし、テージョ川流域の<植>民は進まず、人口の不足を補うためにテンプル騎士団に防衛を依頼した。テンプル騎士団のほかに聖ヨハネ騎士団、カラトラバ騎士団、サンティアゴ騎士団がポルトガルに入り、アレンテージョ地方のレコンキスタが進展する。・・・
 1179年にポルトガルは教皇・・・から征服地の支配権を認められ、アフォンソと子孫は<カスティーリャから独立し、>正式な王位を認められる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%82%BD1%E4%B8%96_(%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E7%8E%8B)
 こうして、「ポルトガルにおけるレコンキスタはスペインよりも早期に完了し・・・1249年には最後のムスリム拠点となっていたシルヴェスとファロが解放された。
 レコンキスタの完了後、首都が1255年にコインブラからリスボンに遷都され・・・1290年にはポルトガル最古の大学であるコインブラ大学が<前首都に>設立された。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB ※

 その後、英仏「百年戦争<の時、親英のポルトガルは、カスティーリャと戦争となり、<その過程でポルトガルは再びカスティーリャへの隷属状態に陥ったけれど、>1383年に発生した民衆蜂起をきっかけに親カスティーリャ派と反カスティーリャ派の対立が激化し、・・・<イギリス>と<正式に同盟関係に入った>反カスティーリャ派<は、>・・・最終的に・・・勝利<を収め、>」(※)「1385年にアヴィス朝が成立し、ポルトガルはカスティーリャ<・・後の>スペイン<・・>から<、再度>独立<を果た>した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB
のです。↓

 ジョアン1世(大王。João I。国王:1385~1433年)は、「1385年5月、コインブラで開催されたコルテス(身分制議会)において、カスティーリャ軍を撃退した功績を評価されて・・・ポルトガル王に選出された<ところ、>同年8月、<カスティーリャの>フアン1世が再度侵攻してきたが、アルジュバロータの戦いでこれを大いに破<り>・・・、2年余り続いたカスティーリャとの戦い、および<それと連動した>ポルトガル内戦は<一旦>終結した。
 <そして、>カスティーリャ王国の背後に同盟国フランスがいるのに対抗して、1386年に〈ジョン・オブ・ゴーント(注31)の仲介で〉<イギリス>とウィンザー条約<(注32)>を結んで同盟した。<その後、>1387年にカスティーリャ王国と最初の休戦協定が結ばれたが、1396年から1397年にかけて起きた小競り合いを経て数度休戦協定が結ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A2%E3%83%B31%E4%B8%96_(%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E7%8E%8B)

 (注31)John of Gaunt。1340~99年。ランカスター公。「1386年からイベリア半島に遠征し、後妻[・・2番目の当時の妻コンスタンスがカスティーリャ王ペドロ1世の娘・・]の権利としてカスティーリャ王位を主張したが果たせず、王位要求を放棄する代わりに〈コンスタンスとの間の〉娘キャサリンとカスティーリャ王子エンリケ(後のエンリケ3世)を結婚<させ>、10万ポンドの金や年金受け取りで妥協して1389年に帰国<した>・・・
 リチャード2世は・・・<この>ランカスター公の死の前年の1398年、<公>の息子<の>・・・ヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)を国外追放した。さらに1399年にランカスター公の死を見届けるとランカスター公領の没収を命じた。ボリングブルックは帰国して反乱を起こすとリチャード2世を捕らえて廃位し、ヘンリー4世として即位した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%88
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AB (〈〉内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AB ([]内)
 (注32)「現存する最古の2国間同盟である。・・・<後に>スペイン・ハプスブルク家のポルトガル支配を退ける際にも利用された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%83%BC%E6%9D%A1%E7%B4%84 

 で、ここからが重要なのですが、ジョアン1世は、1387年2月2日に、イギリスとの同盟の証としてジョン・オブ・ゴーントの娘フィリッパとポルトで結婚するところ、この2人の間にいずれも優秀な王子達が生まれます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%861%E4%B8%96_(%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E7%8E%8B) ]
 このフィリッパ・オブ・ランカスター、改め、フィリパ・デ・レンカストレ( Filipa de Lencastre。1359~1415年)は、「ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントとその最初の妃ブランシュの娘<であり、後に>ランカスター朝の初代<イギリス>王ヘンリー4世の姉<ということになるわけですが、>・・・1387年2月2日、ポルトでジョアン1世と結婚した<ところ、あの>・・・エンリケ航海王子(1394年~1460年)<は、その子であり、>・・・死の床でセウタ攻略へ向かう<エンリケを含め>王子たちを呼び、「勇ましく戦っておいで。」と、剣を与え送り出した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%91%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC
と伝えられています。
 まさに、フィリパは、戦場で、夫や子供を叱咤し激励したゲルマン人女性そのものですよね。
 エンリケ等の王子達はもちろん、その子孫も、これでは、好戦性・冒険性を旨として生き続けざるをえなかったことでしょう。
 さて、イギリス人の子で、曾祖父と叔父にイギリス王を持つ、このエンリケ航海王子(Infante Dom Henrique。1394~1460年)ですが、彼は、「1420年5月25日、・・・テンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団の指導者となり、その死に到るまでその地位にあると共に、莫大な資産を保有する騎士団による援助によって、自らの探検事業の強力な資金源とし・・・、特に1440年代までに<か>け、・・・大西洋への進出に並々ならぬ情熱を傾け<ました>。・・・
 <すなわち、>1414年、・・・父ジョアン1世とともに、・・・アフリカ北岸にあるセウタ・・・<を>攻略<し(前出)、>・・・1419年、前年12月にエンリケが派遣した<船によって>・・・マデイラ諸島が「発見」され、翌年から植民地化が始められ・・・1427年<、>・・・アゾレス諸島を発見<、>・・・1448年に・・・現在のモーリタニア<の>・・・アルギン湾に・・・要塞を築<き、>・・・1444年、バルトロメウ・ディアスの父であるディニス・ディアスが・・・ギニアを訪れると共に、サハラ砂漠の南端に達し<、>これによりエンリケは、サハラ砂漠を通過するキャラバンに頼ることなくアフリカ南部の富を手に入れる航路を確立するという、当初の目的を達した<のです>。
 アフリカ南部から大量の金を得ることができるようになったことで、1452年にはポルトガルでは初となる金貨が鋳造され<、更に、>・・・1450年代、カーボベルデにおいて群島が発見され<る>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%B1%E8%88%AA%E6%B5%B7%E7%8E%8B%E5%AD%90
といったところの、欧米の時代の先駆けとしての決定的な役割を果たすのです。
 このエンリケから、アフリカ西海岸開拓事業を継承しのが、ポルトガル国王のジョアン2世(1455~95年。国王:1481~95年)(後でもう一度出てくる)・・フィリパのひ孫・・です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A2%E3%83%B32%E4%B8%96_(%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E7%8E%8B)
 バルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias de Novais。1450?~1500年)は、「1486年10月10日、<この>ジョアン2世<により>、アジアに至る交易路確立のためのアフリカ周回航海の遠征隊長に・・・任命<されます>。
 この航海の主要な目的には、エチオピア方面にあると言われるキリスト教徒の王(プレステ・ジョアンとして知られる)の国を探し、ポルトガルとの友好関係を樹立する事も含まれていた<ところ、彼は、>・・・1488年5月、・・・喜望峰を発見する<のです>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%A1%E3%82%A6%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%82%B9

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[ジョアン2世前後の諸ポルトガル国王と対外進出]

〇ドゥアルテ1世(雄弁王。1357~1433年。国王:1433~38年)。フィリパの息子。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%861%E4%B8%96_(%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E7%8E%8B)

〇アフォンソ5世(Afonso V:アフリカ王。1432~81年)。「ドゥアルテ1世とアラゴン王フェルナンド1世の娘レオノールの子<なので、フィリパの孫>。・・・父王の急逝により、わずか6歳で即位した。・・・コルテス(議会)はドゥアルテ王の弟コインブラ公ペドロ王子を摂政に選んだ。・・・
 1448年、コインブラ公の娘で従妹であるイザベルと結婚する。2人の間には・・・王位を継承したジョアン2世<を含む)3子が生まれた。・・・
 1458年、アフォンソ5世はアルカセル・セゲールを征服した。1474年にはアルジラ、タンジェを征服した。これにより、モロッコでセウタ他4都市を掌握するアフリカ・ポルトガル帝国を形成・・・。
 同年、カスティーリャ王エンリケ4世の死去により、エンリケの異母妹イサベル(後のイサベル1世)とエンリケの長女フアナ・ラ・ベルトラネーハ王女との間に、王位を巡って抗争が起こった。フアナは、妃に先立たれて独身だったアフォンソ5世と婚約し、その救援を求めた。43歳の叔父と14歳の姪との結婚でも、教皇の許可を取得すれば可能だった。アフォンソ5世は、この結婚でカスティーリャ・ポルトガルの両国王になれると乗り気になり、・・・2万の兵を率いてカスティーリャへ侵攻した。しかしカスティーリャ人と軍の大半は、・・・フアナよりも、アラゴン王太子妃となったイサベルを支持していたため、1476年3月のトロの戦いで敗れた。膠着状態に陥った継承戦争のさなか、アフォンソ5世はフランスに赴いてルイ11世の援助を求めたが失敗した。教皇庁からの結婚の許可もついに出なかった。
 1477年7月、アルカソヴァ条約により戦争は終結した。条約の内容は次の通りであった。

・アフォンソ5世はフアナとの結婚を解消し、カスティーリャ王位請求権を放棄する。
・フアナはカスティーリャの王位継承者アストゥリアス公フアン(カトリック両王の長男)と将来結婚するか、あるいは修道院に入るか、半年以内に決める。
・ポルトガル王太子ジョアンの長男アフォンソ王子とカスティーリャ王女イサベル(カトリック両王の長女)の婚約。
・フアナに味方して戦ったカスティーリャ人に恩赦を与える。
 フアナは17歳でカスティーリャの王冠を放棄し、コインブラのサンタ・クララ修道院へ入った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%82%BD5%E4%B8%96_(%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E7%8E%8B)

〇ジョアン2世(João II。無欠王。1455~95年)(前出。フィリパのひ孫)。「コロンブスの航海事業には協力しなかったため、大西洋開拓ではスペイン(カスティーリャ=アラゴン連合王国)に遅れをとった。・・・
 長男アフォンソ王太子は1490年、カスティーリャ=アラゴン王女イサベル(カトリック両王の娘)とエヴォラで結婚したが、翌1491年に王太子は落馬事故で死去し、王太子妃イサベルは故国へ戻った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A2%E3%83%B32%E4%B8%96_(%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E7%8E%8B)
 「1492年にグラナダ戦争に勝利してレコンキスタが終結したスペインが、1494年にポルトガルとトルデシリャス条約<(後出)>を結び、ヨーロッパ以外の世界の分割を協定した。」(※)

〇マヌエル1世(Manuel I。1469~1521年。国王:1495~1521年)「父は<フィリパの子である>第11代国王ドゥアルテ1世の三男ヴィゼウ公フェルナンド(1433年 – 1470年)<なので、父系ではフィリパのひ孫>。母はドゥアルテ1世の弟アヴェイロ公ジョアンの娘でフェルナンドの従姉にあたるベアトリス(1430年 – 1506年)<なので、母系でもフィリパのひ孫>。<ベアトリス>の姉イザベルはカスティーリャ王フアン2世の2番目の王妃で、女王イサベル1世の母である(したがってマヌエルとイサベル1世は従姉弟の関係である)。 ・・・<また、>マヌエルは国王の<ジョアン2世<とは、>従弟・・・かつ義弟という関係にあった。・・・
 中央集権化とアジアとの海上貿易路開拓という基本路線<を>先王からそのまま受け継いだ。・・・
 マヌエルの命令により、1497年7月にリスボンを出港したヴァスコ・ダ・ガマは、1498年5月にインドのカリカット(コーリコード)に到達した。これにより、ポルトガルから喜望峰を経てインドへ至る海上ルートが発見された。1500年には、マヌエルによってインドに派遣されたペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルに漂着した後、東航してインドに着いた。トルデシリャス条約の締結時(1494年)には予想されていなかった位置に存在していたブラジルは、条約の取り決めに基づきポルトガル領となった。・・・
 1509年に・・・2代目の総督にアフォンソ・デ・アルブケルケを任命した。彼は1510年、ゴアを占領し、その地をインド領の首府とした。続いて1511年にマラッカを占領し、そこを東南アジアでの中心拠点として、周辺の島々から集めた香辛料などをゴアに送る体制をつくった。さらに1517年には、中国の広東に入港している。この2人の総督時代に、インド洋とペルシア湾での海上ルートは、ポルトガルの独占となり、アジアとポルトガルを直接結びつける海上交易路が完成した。・・・
 大西洋のマデイラ島での砂糖生産を王室の直轄とし、生産量を大幅に拡大させ、<欧州>各地へ輸出可能となった。ポルトガルはアジアからの香辛料、アフリカからの金、そしてマデイラ島からの砂糖によって、莫大な利益を得た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB1%E4%B8%96_(%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E7%8E%8B)
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  –スペイン–

 「ポルトガル王ジョアン1世と<あの>王妃フィリパの息子で<あるところの(>、ドゥアルテ1世やエンリケ航海王子の弟である<)、ポルトガルの>ジョアン王子<の娘である>・・・イサベル・デ・ポルトゥガル (カスティーリャ王妃)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%AC%E3%83%AB_(%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%A3%E7%8E%8B%E5%A6%83)
の娘が、カスティーリャ女王のイサベラ1世(1451~1504年。カスティーリャ女王:1474~1504年)です。
 つまり、イサベラはフィリパのひ孫、ということになるわけですが、1469年に、アラゴンのフェルディナンドと結婚していたイサベラがカスティーリャ女王となり、それに引き続くカスティーリャ王位継承戦争(1475~79年)終了後に(アラゴンとは接していない)グラナダ王国(Emirates of Granada)攻略を夫の手を借りて始めた(1482~92年)のは、グラナダ側の挑発に対処すると共に、グラナダの内紛につけいったもの
https://en.wikipedia.org/wiki/Granada_War
ですが、それは、もっぱら、カトリック教徒としての熱意と偏見に基づくものだったのではないでしょうか。
 その後、彼女は、「熱狂的なカトリック教徒<として、イスラム教徒やユダヤ人>を執拗に追放・殺戮し、また・・・キリスト教へ改宗した<旧イスラム教徒や旧ユダヤ人>に対したびたび異端審問を行い、財産の没収・追放・処刑等を行っ<ている>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%99%E3%83%AB1%E4%B8%96_(%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%A3%E5%A5%B3%E7%8E%8B)からです。
 彼女は、この点に関する限り、全くもって非イギリス人的なのですが、ゲルマン的好戦性・冒険性だけはフィリパからしっかり受け継いでいたとみえ、継承戦争やグラナダ攻略中、彼女は、どんどん対外進出を果たしてゆく隣国ポルトガルを羨望と焦燥の念で見守っていたと思われ、だからこそ、「1492年1月2日に・・・グラナダが陥落したことで、スペインに財政上の余裕ができ<ると、>・・・<ポルトガルではついに受け入れられなかったところの、コロンブスの計画に、>元々興味を持っていたイサベル・・・は・・・<、かねてより>あまり興味を<示さなかった、夫の>・・・フェルナンド2世を説き伏せ、<この時点までに事実上成立していた>スペインはついにコロンブスの計画を承認した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%96%E3%82%B9
のでしょうね。

  –イギリス–

 ポルトガルの対外進出に、スペインよりも更に焦燥感を募らせていたのはイギリスでしょう。
 イギリスは、1542年に百年戦争に敗北したので、それなら、と、好戦性・冒険性のはけ口として海外雄飛をしたかったと想像されるところ、「敗残兵」がイギリスに大量に引き揚げ、ないし移った、ことで、ある意味必然的にイギリス国内で内紛が起きてしまうのです。
 薔薇戦争(1455~1485/1487年)です。↓

 「1455年5月にヨーク公リチャードがヘンリー6世に対して反乱を起こしてから、1485年にテューダー朝が成立するまで(1487年6月のストーク・フィールドの戦いまでとする見方もある)、プランタジネット家傍流のランカスター家<(既出)>とヨーク家の間で戦われた権力闘争である。・・・
 1429年、ジャンヌ・ダルクの活躍によってアルマニャック派がオルレアンを解放し、シャルル7世はランスでフランス国王の戴冠式を挙行した。<イギリス>側もパリを一時的に確保して1431年にヘンリー6世のフランス国王戴冠式を挙行するが、1435年のアラスの和約で同盟者であったブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)がシャルル7世と講和し、<イギリス>にとって情勢は不利になった。 ・・・
 フランスではシャルル7世が<イギリス>軍を追い詰め、1453年10月19日、<イギリス>軍最後の拠点であったボルドーを攻め落した。その後<イギリス>勢力による反撃が試みられたが、小競り合い程度であることから、これをもって百年戦争は終結したと見做されている。・・・
 薔薇戦争の時期には、フランスでの戦いに敗れ<イギリス>軍から除隊させられた多数の兵士たちの存在があった。貴族たちは彼らを雇用して襲撃、または従臣とともに法廷に引き連れて行き、原告や傍聴人そして判事に対する威嚇に用いた(訴訟不法幇助)。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%94%E8%96%87%E6%88%A6%E4%BA%89

 この間もまた、イギリス王室のイベリア半島における子孫達によるところの、ポルトガルに加えてスペインによる対外進出を指をくわえて見ているしかなかったイギリスでしたが、薔薇戦争の終結によって、ついに参入の機会が訪れます。
 コロンブスに遅れること4年、1496年に、奇しくもコロンブス同様、ジェノヴァ出身のカボットを、ヘンリー7世は、西方への航海に送り出すのです。↓

 ジョン・カボット(John Cabot。1450?~1498年)は、「ジェノヴァに生まれ、前半生はヴェネツィアで活動し1484年に<イギリス>へ移住した。1496年に国王ヘンリー7世の特許状を受けて、ブリストルを出航したものの失敗。翌年、息子のセバスチャン・カボットを伴って再び船団を率い、ヴァイキングの航路を辿ってカナダ東南岸のケープ・ブレトン島に到達し、ニューファンドランド島やラブラドル半島を発見するなどの成果を挙げて帰国した。1498年にも探検隊を組織し、グリーンランド東西沿岸の調査航海を行ったものの船員の叛乱によって南下を余儀なくされ、その途上で没した。この2度目の航海でデラウェアとチェサピーク湾を発見したことは、<イギリス>が<、その後、>フロリダ以北の北米大陸の所有権を主張する根拠となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%88
 「<ヴァイキングが>放棄<した>後、500年間にわたり<欧州>人の来訪がなかった<ニューファウンドランド>島は、1497年の<ジェノア出身のイギリス>人航海者ジョン・カボットが再発見し「テラ・ノヴァ」と命名した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%B3%B6

 –補足的総括–

 この時点で、ゲルマン人に率いられた欧州人達の戦闘・戦争能力が、非欧州人のそれを上回っていたわけではないことに注意が必要です。(前出のウィーン包囲戦やプレヴェザの海戦を想起してください。)
 で、その後を、今度は、オランダ、フランス、そして、ロシア、が追いかけていくことになるわけです。
 (ベルギーやイタリアは無視していいでしょう。)
 蛇足ですが、ポルトガル/スペインはゲルマン人とローマ化したケルト人/先住コーカソイドの組み合わせ、イギリスは(ヴァイキングによって上書きされた)ゲルマン人とケルト人の組み合わせ、オランダ人は大ブリテン島に渡らなかったゲルマン人、フランスは出来悪ゲルマン人とローマ化したケルト人の組み合わせ、ロシアはゲルマン人とモンゴルの軛症候群に罹ったスラヴ人の組み合わせ、といった感じでしょうか。
 それじゃあ、やはり、これらの中で、イギリスとその出来悪だけど図体が大きい米国、が勝利を収めるのは必然だった、ということになりそうですね。

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[トルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)]

 「1494年6月7日に<スペインのフェルナンド2世とポルトガルのジョアン2世との>間で結ばれた条約。
 当時両国が盛んに船団を送り込んでいた「新世界」における紛争を解決するため、教皇アレクサンデル6世の承認によって<欧州>以外の新領土の分割方式を取り決めた。・・・
 フランス、イギリス・・・、オランダといった国々はこの条約によって領土獲得の優先権から締め出される形となった。
 この状況を打破するには、スペインやポルトガルの船団に対して海賊行為をおこなうか、(このころはまだ難しかった)教皇の決定を無視するかという選択肢しかなかった。・・・
 <その後、>アジアにおける線引きのための交渉がおこなわれ、新たに発効されたのが1529年4月22日に批准された「サラゴサ条約」である。・・・
 これによってポルトガルのマカオにおける権益が承認された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%A3%E3%82%B9%E6%9D%A1%E7%B4%84
https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Tordesillas
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6 終わりに代えて

 第四次ゲルマン人大移動、ということはゲルマン人大移動、を終わらせたのが、1904~1905年の日露戦争での日本の勝利です。
 ゲルマン人にとって、この地球におけるフロンティアが消滅した瞬間です。
 その結果、(英仏百年戦争の発生原因と似通っていますが、)欧米の外向きのベクトルが内向きへと転じざるを得なくなり、起こったのが、旧世界全体に未曾有の大惨禍をもたらしたところの、欧州における、第一次、第二次世界大戦の生起であり、フランク族以来、プロト/欧州文明において脈々と受け継がれてきたところの、スターリン主義とファシズムという形での「敵」絶滅に向けての狂気の噴出であった、と見ることができるでしょう。
 そして今度は、日本は、欧州・・欧米と言ってもよい・・によるこれらの倒錯的愚行を逆手に取る形で、旧世界中の非欧米、とりわけ、東アジア、の復興によるところの、かつての世界の常態であった非欧米の時代、就中東アジアの時代、への回帰のための条件整備に成功したわけです。
 日本による、この欧米勢力の抑止と反転を推進させた原動力が島津斉彬コンセンスであったことは、太田コラムの読者の皆さんは先刻ご承知のことと思います。
 ところで、今後、第五次ゲルマン人大移動的なものが起きることは絶対にありえないのでしょうか?
 宇宙に植民できるようになったら、そして、ひょっとしてその頃になってもアジアが完全復興を果たしていなかったなら、あるかもしれませんね。
 北・南極探検なる「冒険」の先鞭をつけたのもゲルマン人でしたが、その延長線上に、彼らの中の露米が始めた宇宙探検なる「冒険」があったわけであり、北極ではそもそも居住不可能であり、南極では生きづらかったために植民対象にはならなかったところ、南極や宇宙で比較的低コストで快適な生活が送れる条件が整えば、という条件付きですが・・。
 そんなSF話はこれくらいにして、最後に一言。
 国別IQのデータをご覧ください。
http://worldpopulationreview.com/countries/average-iq-by-country/
 序列上位は、シンガポール、香港、韓国(朝鮮)、日本、中共(支那)、台湾、イタリア(ローマ)、スイス、モンゴル、アイスランド、英国、ノルウェー、オランダ、ルクセンブルグ、オーストリア、スウェーデン、ポーランド、ベルギー、ドイツ、フィンランド、エストニア、カナダ、米国、スペイン、ラトヴィア、豪州、ハンガリー、フランス、デンマーク・・・です。
 上位の方に並ぶのは、ゲルマン人の大移動において主導的役割を果たした国々ないしはこの大移動の結果として生まれた国々ですが、最上位の国々は、大移動とは無縁ですよね(コラム#10809)。
 さて、ネットにざっとあたってみたところでは、過去においては、高リスク追求者は知能が高い、という研究が多かったと見てよさそうです。
 例えば、これ↓がそうです。
 大脳の白質(white matter)は、情報を効率的に分析し伝達することを担っている神経網であるとした上で、リスク追求者の白質は大きく、リスク回避者の白質は小さい、つまり、リスク追求者は高知能、リスク回避者は低知能である、と結論付けた研究です。
https://www.huffpost.com/entry/risk-takers-are-smarter_n_565f3961e4b08e945fedafe2
 この研究に関しては、白質が大きければ高知能である、ということが検証されていないように思いましたが・・。
 そうしているうちに、最も最近の研究で、今までの研究では結果が分かれていたけれど、高知能の者はリスク回避的であると言ってよい、というものを発見しました。
file:///D:/Users/Nobumasa%20Ohta/Downloads/SSRN-id3352909.pdf
 決定打を欠いているこれら諸研究を踏まえ、私としては、とりあえず、以下のように考えています。
 ポリティカルコレクトネスを完全放棄した書き方になっていて不快に思われる方もおられるかもしれませんが、何卒悪しからず。
 一般には、知能が高くなればなるほどリスク追求度が増していくけれど、知能が極めて高くなると、再びリスク追求度が減じていく、と。
 だから、知能が極めて高い人々の集団は、戦争が付き物であるところの、他の人々の集団が住んでいたり住んでいる可能性が高い地域に向けての進出や、危険が付き物であるところの、人間が殆ど住んでいない場所や地域に分け入る冒険、並びにそれらの結果としての大移動などは、極力回避する、と。
 古代で言えば、ローマ人(イタリア人)は、基本的に防衛戦争しか行わなかったため、その結果として、知的に微差ながら劣るけれど、戦争や冒険、ひいては大移動を促す文化を身に着けていたところの、ゲルマン人達にその西部を席捲され、見る影もなくなってしまったし、近現代で言えば、東アジアにおける、大移動とは対蹠的な、柵封体制だの鎖国だの、は、戦争や冒険がリスク的に引き合わないと判断する高度な知性を東アジア人達が共通して持ち合わせていたことに伴う産物であるところ、そういった姿勢が仇となり、この東アジア人達は、知的には少し劣るけれど、戦争や冒険、ひいては大移動を促す文化を身に着けていたところの、ゲルマン人達と彼らが率いた被支配者たる欧米人達によって、残りのほぼ全ての人々・・知的底辺層でリスク回避的で消極的・・を支配されてしまい、あろうことか、自分達自身まで、すんでのところで支配されてしまうところまで追い詰められてしまったのであり、それこそがまさに、近現代における欧米の時代なるもの正体だった、ということではないか、と。
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太田述正コラム#10814(2019.9.21)
<2019.9.21オフ会次第(その1)>

→非公開