太田述正コラム#10660(2019.7.6)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その69)>(2019.9.24公開)
「さて、<次に>・・・朝鮮・台湾両総督の軍隊統率権<についてです。>・・・
両総督が武官総督である場合に・・・現役は要件ではなくな<った一方で、>・・・兵力使用が必要であるか否かの判断は武官たると文官たるとを問わず、<引き続き、>総督に留保されることとなったので<す>。・・・
<また、>教育による「同化」の制度的基盤を朝鮮と台湾について造り出そうとしたのが、1922(大正11)年1月25日の枢密院本会議で可決された朝鮮教育令(1911年8月制定)改正と台湾教育令(1919年1月制定)改正でした。
両改正共通の眼目は、朝鮮と台湾における教育について、日本人と現地人とを分けず、同一勅令によって規定し、実質においては日本人と現地人との間に、ある範囲の共学を実施するとともに、大学教育の導入<(注78)>等現地人に対する教育水準の引き上げ<(注79)>を図ったところにありました。・・・
(注78)「英領インドでは、1857年にボンベイ大学、カルカッタ大学、マドラス大学が設置されています。・・・その他、マイソール大学(1916年)、オスマニア大学(1918年)、アーンドラ大学(1926年)、アンナマライ大学(1929年)、トラヴァンコール大学(1937年)などが設立されています。1801年に<英国>に併合されたアイルランドでも、1845年にはベルファスト、ゴールウェイ、コークに王立大学が設置されていますし、イギリスの保護国だったエジプトでも1908年にはカイロ大学が設立されています。・・・香港大学は1911年の創立です。・・・
<また、>フランスが仏領インドシナにインドシナ大学を設置したのは1906年、アルジェリアにアルジェ大学を設置したのは1909年、<米国>がフィリピンにフィリピン大学を作ったのが1908年です。
日本植民地では・・・旅順工科大学が1922年に創立され・・・朝鮮に京城帝国大学を作ったのは1924年、・・・台湾に台北帝国大学を作ったのは1928年です。」
http://scopedog.hatenablog.com/entry/20130708/1373297324
(注79)「1813年、英領インドの初代総督ウォーレン・ヘースティングズ はインド人は一般に「どの国の国民よりも、読み書きと算術の知識で上回ってる」と記している。<ところが、> 19世紀には、マコーリーを中心とした大英帝国側により、・・・伝統的な教育は排除され、これ以後は衰退した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E6%95%99%E8%82%B2
その結果、インド独立時には、非識字率は、実に、92%
https://p-dress.jp/articles/7283
という惨憺たる有様に陥ってしまっていた。
⇒三谷はきちんと書いてくれていませんが、植民地において、日本は、まず、初等中等教育の整備、次いで、高等教育(及び研究)の整備を行った、のに対し、英国は、基本的に、高等教育の整備だけを行った、ということが、「注78」「注79」から読み取ってもらえると思います。
英国は、高等教育を通じて現地支配層たる買弁勢力を自分達に「同化」させる一方で、大衆は無知蒙昧のままにとどめ、或いは、大衆の無知蒙昧化を図ることによって、植民地統治の容易化、永続化を確保しようとしたのに対し、日本は、明治維新後、日本自身がやったことを、順序だてて植民地においてもやった、という大変な違いがあった、というわけです。(太田)
しかも注目すべきことは、従来の朝鮮教育令に掲げられていた「教育は教育に関する勅語の旨趣に基き忠良なる国民を育成することを本義とし時勢及民度に適合せしむることを期すべき旨の規定」<(注80)>が削除されたことです。・・・
(注80)教育勅語(教育ニ関スル勅語)は、「朝鮮教育令(明治44年勅令第229号)<、と>、台湾教育令(大正8年勅令第1号)で<、それぞれ、>・・・、教育全般の規範と・・・された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E3%83%8B%E9%96%A2%E3%82%B9%E3%83%AB%E5%8B%85%E8%AA%9E
「同化」政策といっても、「教育勅語」による「同化」はむしろ政策自体の目的を阻害するものとして、当時の高橋是清政友会内閣・・・はこれを排したのです。
⇒ここでも、三谷は、その理由を書いてくれていません。(太田)
次に台湾教育令改正についてみると、これもまた「同化」を目的とする制度改正という点で、朝鮮のそれとの間に大幅な共通面があると同時に、若干の異質面がありました。
まず共通面としては、現地人に対して大学教育の機会を与えたこと、大学教育をはじめ師範教育、専門教育および実業教育については日本人と現地人との共学を認めたこと、さらに教育勅語による「同化」を排除したこと等があります。
(続く)