太田述正コラム#910(2005.10.16)
<ペロポネソス戦争(その3)>
<補注:自由・民主主義的/帝国主義的アテネについて>
A 民主主義アテネの成立
a アテネの民主主義の概要
まず、委員会(Council)の説明から始めましょう。
アテネは10の区(tribes)に分けられた上で、更に区は町(demes)に分けられていて、町は自治機能を有していました。各町は、30歳以上の町住民たる市民の中から委員会の委員候補者を指名し、この候補者の中から区ごとに50人の1年任期の委員がくじ引きで選ばれたので、委員会の委員は総勢500人でした。委員は2任期続けることは許されず、また生涯に2回までしか委員になることはできませんでした。
18歳以上の市民は、集会(Assembly)に10日に一回ずつ集まって、上記委員会から提出される法律案等の議案を審議し、採否を決定しました。
委員会では、同じ区の委員50人からなる分科会が10あり、各分科会は順番に、分科会メンバー全員が毎日集まり、アテネの行政府の監視を1年の10分の1の期間行うとともに、この分科会のメンバーの約3分の1は委員会室に24時間つめて、非常事態の出来に備えました。また、この分科会から、集会の議長を出しました。
集会で採択された議案は、行政府によって執行されました。
行政府の役人は任期が1年間であり、その殆ど全員がくじ引きで選ばれました。通常、役人は10人一組で選ばれ、それぞれの組は特定の公務を担当しました。奴隷を公務執行に使うこともありました。
くじ引きで選ばれた全ての役人は、就任する前に委員会によって審査され、肉体的・精神的にその任に堪えないと判断された者は排除されました。
くじ引きでなく、市民の投票によって選ばれる役人は、1人の建築監と10人の将軍(10将軍会議(Board of 10 Generals)を構成した)だけでした。この10将軍会議がアテネの最高指導部と目され、そのメンバー中の傑出したペリクレスのような将軍がアテネの最高指導者と目されるようになるのです。
裁判所に関しては、毎年30歳以上の6000人の裁判員(jurors)が、志願した市民の中からくじ引きで選ばれ、裁判ごとに、この中から201人以上の裁判員が、賄賂や影響力排除のための複雑なくじ引きを経て選ばれました。裁判にあたっては、原告と被告は一対一で対決しなければならず、判決は多数決で下されました。
民主主義の暴走を回避・抑制するための制度も設けられていました。
集会で成立した法律には提案者(1人)の名前がつけられており、市民は誰でも、この法律がアテネの諸原則に反すると考えたならば、法律成立後1年以内に法廷に訴えることができ、諸原則に反するという判決が出れば、破産するほどの多額の罰金が提案者に課されました。
また、僣主になりそうな人間をあらかじめ排除するための貝殻追放(陶片追放=ostracism)制度があり、600票以上が投じられ、その過半数以上が追放を是とすると、その人間は10年間(後には5年間)アテネを追放されました。
(以上、http://mars.acnet.wnec.edu/~grempel/courses/wc1/lectures/07democracy.html(10月15日アクセス)による。)
b アテネの住民の一部だけの民主主義
アテネには前5世紀を通じ約30万人の住民がいましたが、民主主義は、このうち、両親ともアテネの自由人であった者から生まれた成人男子約45,000人だけのものでした。
市民だけが、土地を所有し、アテネの自由人たる子供をつくることができ、集会への出席等の政治的権利を行使できました。また、市民と自由人たる未婚の女性だけが、アテネで行われる様々な宗教的行事に参加することができました。
アテネにはこのほか、自由人たる外国人、自由人たる女性、それに男女の奴隷、がいました。奴隷は奴隷の両親から生まれたケースや戦争で敗北した結果奴隷になったケースがあり、アテネの総人口の3分の1から4分の1を占めていました。
アテネの奴隷は、ギリシャの全ポリスの中で最も恵まれていた、と言われています。
上級の奴隷は、アテネの警官として働いたり、市民の子供の住み込み家庭教師を務めたりしました。中級の奴隷であっても、カネを貯めて自由人となることができました。もっとも、下級の奴隷は、アテネの銀山で酷使され、ばたばた斃れて行きました。
(以上、http://www.bbc.co.uk/schools/ancientgreece/athens/slaves.shtml、http://www.pbs.org/empires/thegreeks/background/32b_p1.html、及びhttp://www.mnsu.edu/emuseum/prehistory/aegean/culture/classesofathens.html(いずれも10月15日アクセス)による。)
しかし、自由人たる女性はひどく虐げられており、その境遇は奴隷とさして異なりませんでした。
女性は読み書きができなくてよく、教育も受けず、家庭内の奴隷から、糸紡ぎや機織り等の技術を教えられただけでした。
また、女性は財産を所有することができませんでし、原則として外出することすら認められていませんでした。奴隷が何名もいるような家庭では、女性は、結婚していた場合の子育てを除いて、糸紡ぎや機織り等以外、何もすることがありませんでした。
ちょっと信じがたいことですが、女性は腹一杯食事することも許されておらず、常に空腹に耐えていました。
結婚は、新婦の父親と新郎との間で契約が交わされた上で行われました。持参金は新婦の父親の兄弟に渡され、結婚後夫が死ぬと、この兄弟は、寡婦を引き取り、新しい夫を見つける義務を負っていました。しかし、再婚相手が見つからないままこの兄弟が死亡すると、寡婦は、奴隷の身分に落とされてしまいました(注4)。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.mnsu.edu/emuseum/prehistory/aegean/culture/womenofathens.html(10月15日アクセス)による。)
(注4)これに比べ、スパルタの自由民たる女性ははるかに恵まれていた。彼女たちは、読み書きを身につけるとともに、武道やスポーツにも勤しんだ。当然、腹一杯食事をすることもできた。糸紡ぎや機織り、そして育児は全て奴隷が行った。また、彼女たちは財産を所有し処分することができた。戦争等で夫が長期間家を空けた場合には、別の男と結婚することができたし、夫不在の間は、自ら家産を外敵から守るとともに、叛乱防止にあたった。なお、結婚は男性による女性の略奪婚という事実婚が原則であり、一妻多夫状態となることがめずらしくなかった。(http://www.mnsu.edu/emuseum/prehistory/aegean/culture/womenofsparta.html。10月15日アクセス)
(続く)