太田述正コラム#9112005.10.16

<ペロポネソス戦争(その4)>

c アテネの民主主義成立まで

 ペリクレスの弔辞(コラム#909)からも窺えるように、アテネの市民は、自分達の政体が、ギリシャの他のポリスには例を見ないユニークなものである、と自負していたわけですが、果たして、以上見てきたような、住民の過半数以上の者が享受することが許されないような民主主義が民主主義の名に値するのでしょうか。

 この問題はペンディングにして、アテネの民主主義がどのような経緯をたどって生誕したのかを見てみましょう。

 ギリシャのポリスでずっと王制的な政体を維持したのはスパルタぐらいであり、後のポリスの大部分は、かなり早期に王制を廃して寡頭制(oligarchy)や僣主制に移っていました。

 アテネも寡頭制と僣主制の間を揺れ動くのですが、アテネが、貧しい市民達の多くが借金漬けになり、金持ちの市民から借りた借金が払えなくて、全財産を失ったり奴隷に転落する例が続出し、貧しい市民が叛乱を起こしそうになったという危機に直面した紀元前6世紀初頭、アテネの貴族達は一致してソロン(Solon。前638??前558年)に全権を与え、ソロンはアテネの改革に乗り出します。

 ソロンは、市民自身や市民の土地を担保にした借金について徳政令を発出するとともに、爾後自分自身を借金の担保にすることを禁じます。その上で、ソロンは、保有財産の多寡に応じて、市民を4つの階級に分け、一番富んだ階級は上級の役人に就き、二番目の階級は下級の役人に就くとともに騎士として軍役に服し、三番目の階級は同じく下級の役人に就くとともに重装歩兵として軍役に服し、一番貧しい階級は、数の上では多数を占めていましたが、役人にはなれず、軽装歩兵として軍役に服すこととされました(注5)。

 (注5)この4つの階級に属する市民は、それぞれ一人当たりのウェートにして、6:3:1:0の税金を負担した(http://en.wikipedia.org/wiki/Solon1015日アクセス)

 

それと同時に、ソロンは、集会と委員会(どちらもコラム#910。ただし、この時点では委員会の委員は、各tribe(ただし、太古からの「部族」)から100人ずつの総勢400人)を設置します。一番貧しい階級のメンバーは、集会の議案の採択には参加できませんでしたが、彼らには採択された議案に対する拒否権が与えられました。

 しかしその後、再びアテネはペイシストラトゥス(Pisistratus)からその息子ヒッピアス(Hippias)へと続く僣主制に戻ってしまいます。この僣主制を覆そうと、前514年に僣主ヒッピアスとその弟の殺害を企て、弟の暗殺には成功するも非業の死をとげる、ハーモニディウス(Harmodius)とアリストギトン(Aristogiton)の話は有名です(コラム#869。ただし、当時の典拠に由来する事実の誤りあり)。

 前510年には、クレイステネス(Cleisthenes Clisthenes。前570??年)が、スパルタを巧妙に利用することで、僣主ヒッピアスを追放することに成功します。

 そしてこのクレイステネスの手によって、前508年にアテネに民主主義が確立するのです。

 (以上、特に断っていない限りhttp://ancienthistory.about.com/library/bl/bl_smithhistoryofgreece5.htm1015日アクセス)による。)

 このアテネの民主主義は、ペロポネソス戦争の敗戦後の一時期を除き、前267年まで241年にわたって続きます。これは、建国当時は(女性や奴隷には参政権が認められておらず、アテネ同様、住民の過半数以上の者が享受することが許されない民主主義であったところの)米国の民主主義は、1787年の憲法制定から218年しか経過していないことから、今だもって民主主義の最長記録を、人類最初の民主主義が保持しているわけです(http://mars.acnet.wnec.edu/~grempel/courses/wc1/lectures/07democracy.html前掲)

(注6)。

 

 (注6)英国は、貴族に全員貴族院議員の資格を与えていることから、厳密に言えば、未だ民主主義ではない。

(続く)