太田述正コラム#10666(2019.7.9)
<映画評論63:バグダッド・カフェ(その2)>(2019.9.27公開)
主人公は、このカフェ兼モーテルで出会う人々すべてに、静かに共感能力を発揮して接するとともに、乱雑で汚れていたカフェ内を、副主人公の外出中に一人でガラクタを運び出して更に大掃除を行い、副主人公を、一旦は怒らせるものの、<・・で、ここは、やはり、見た記憶のない場面なのですが、副主人公に、整理整頓、清潔さの重要性を説き、更には、お客に最高のもてなしを、と迫った結果、・・〉この副主人公を始めとする黒人達とカフェ使用人たるアメリカ原住民を回心させることに成功するのです。
その上で、主人公は、このカフェ兼モーテルに来てから密かに教則本を見ながら練習し、熟達するに至ったところの手品(以上、Dによる)を、客達に披露するようになり、どんどんカフェの客が増え、副主人公までが手品を習得して主人公と助手的に共演するようになるのです(映画そのものより)。
その間、時々挿入されるのが、相当場違いであるところの、副主人公のまだ10代の、しかし、既に、副主人公の孫を誰かとの間でもうけて副主人公に育てさせているところの、息子がピアノで奏でる(以上、Dによる。但し、<>内はFによる)、ドイツのバッハの平均律クラヴィーア曲集(注)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9D%87%E5%BE%8B%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%A2%E6%9B%B2%E9%9B%86
の諸作品(<第1巻の>the C major, no. 1, BWV 84<6>; the C minor, BWV 84<7>, no. 2; and the D major, no. 5, BWV 850)であり(B)、これは、ドイツ人たる主人公、と、この副主人公一家、とのただならぬ縁(えにし)を暗示したものである、と私は受けとめました。
(注)「1巻と2巻があり、それぞれ24の全ての調による前奏曲とフーガで構成されている。第1巻 (BWV846〜869) は1722年、第2巻 (BWV870〜893) は1742年に完成した。・・・
ハンス・フォン・ビューローは、この曲集と・・・ベートーヴェンのピアノソナタを、それぞれ、音楽の旧約聖書と新約聖書と呼び、賛賞した。・・・
・・・ショパンの「24の前奏曲」や、ショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」は、このバッハの曲集に触発されたものである。」(上掲)
で、この映画は、私見では、アドロンが、欧州文明と米国文明は、白人は、共感能力、や、整理整頓好き、清潔さ、進取の気性、器用さ、等において、有色人種とは画然と区別されるところの、秀でた存在であるけれども、白人は、有色人種を善導し、慈しむよう努めることで、有色人種と平和的友好的に共存を図らなければならず、それは可能である、という神話を共有している、という前提に立って、欧州文明の白人に米国文明の有色人種達とをからませる形で、この神話を喜劇的に「現実」化をして見せてくれたものなのです。
にもかかわらず、アドロンは、インタビューにおいて、白々しくも、以下のように述べています。
「黒人の俳優達は、我々のバイエルン地方の文化と地域(theater)が共有するところの、多くの素晴らしい演劇的かつ喜劇的諸才能(gifts)を有している。・・・
我々バイエルン人達は、とても、泥臭く(earthy)本能的であり、ドイツのアフリカ人達と呼ばれている。
両者に相通ずるものは夥しい。
我々のヨーデルはアフリカのドラムみたいだ。
また、我々の民俗舞踊や伝統的衣装はアフリカで目にするものにとても似ている。・・・
我々は、極めて中世的で鯱張り、古い血が巡っている(old blood)ところの、ドイツのプロテスタント達とは異なっている。
我々は、強固なバイエルンのカトリック的伝統を有しており、それは、夥しい、生と色彩とエロティシズムと情感、を伴っている。・・・
こういったものと同じものは、映画にとっても良いことなのだ。」(C)
でも、そもそも、こんなことが、彼の本心なんぞではありえないことは、上出のバッハが、プロテスタントであるルター派の信徒であり、かつ、バイエルンならぬ、東部ドイツのライプツィヒでの活動期間が最も長かった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BC%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F
こと一つとっても明らかだというのに・・。
3 終わりに
この映画の英語ウィキペディアで引用されている、米国の映画評群は、私の上記結論めいた話を、明々白々であるにもかかわらず、一切書いていません。
書けないんでしょうね。
そのことを含め、この映画の成功のおかげで大いに懐が潤ったはずであるところの、この映画を作・監督・制作したアドロンは、少し落ち着いてから、腹を抱えて笑いころげたのではないでしょうか。
最後に、本来は、この映画の独語ウィキペディアで引用されているであろうドイツの映画評群も読んでみたいところですが、独語の敷居が高いこともあり、残念ながらパスしたことをお断りしておきます。
(完)