太田述正コラム#912(2005.10.17)
<ペロポネソス戦争(その5)>
B アテネ帝国の成立
a デロス同盟
ペルシャ戦争にギリシャ側は勝利したと言っても、ペルシャとの間に小競り合いは続きました。そこで、勝利の翌年の前478年に、小アジア地方とエーゲ海の島嶼上のポリスが、アポロ神にまつわる聖なる島であるデロス(Delos)島に集まって、相互同盟とアテネへの忠誠を誓い合いました。デロス同盟(Delian League)の誕生です。これは、ペルシャからの防衛とペルシャに支配されているポリスの奪還を期すための同盟でした。アテネ以外はアテネに同盟費を納める義務がありましたが、これはアテネがペルシャに対抗するために整備した大艦隊を維持していくための経費に充てられることになっていました。
この段階では、アテネはデロス同盟の盟主ではあったけれど、同盟の意志決定に当たって加入各ポリスは、アテネを含めてみんな対等でした。
しかし、デロス同盟は次第にアテネのための同盟へと変容して行くのです。
b 同盟変容のプロセス
前472年にはアテネでテミストクレスが貝殻追放され、その後をキモン(Cimon=Kimon。?450?年)が襲っていました。
デロス同盟の第一の転機は前467年に、ペルシャからポリスをペルシャから奪還した時に訪れました。この時デロス同盟は、奪還されたこれらポリスのうち、同盟加入を希望しないポリスに対し、破壊するぞとおどして強制的に同盟に加入させたのです。これ以降、デロス同盟は、同盟に加入しないポリスを敵視するようになります。
第二の転機は、小さな島のポリスでデロス同盟に加入していたタソス(Thasos)が、前465年にデロス同盟から離脱しようとして叛乱を起こした時に訪れました。
離脱しようとしたのは、タソスが持っていたギリシャ本土の領地と金鉱をアテネが欲しがったからです。
しかしアテネは、同盟の意志決定の下にタソスに艦隊を派遣して包囲し、前463年にタソスを降伏させ、この領地と金鉱を手に入れるのです。
これは、デロス同盟の意志決定が、同盟全体の利益のためでなく、アテネの利益のためだけに行われた最初のケースとなりました。
(以上、http://www.csun.edu/~hcfll004/ath-expansion.html(10月16日アクセス)も参照した。)
第三の転機は、前461年にキモンが貝殻追放された結果、訪れました。
キモンは親スパルタであり、アテネがギリシャで単独覇権を打ち立てるべきではないと考えていました。ところが、前464年にスパルタで大地震があり、ヘロット(helot。ギリシャ人奴隷)の叛乱が起きます。キモンはアテネから4,000人の重装歩兵を連れてスパルタ救援にかけつけるのですが、スパルタ当局は、スパルタがアテネのように民主主義化することを懼れ、救援の受け入れを拒否したため、キモン達はそのまま引き返すほかありませんでした。これに怒ったアテネ市民達によって、キモンは貝殻追放されてしまいます。
このキモンの後を襲ったペリクレスによって、アテネの民主主義が成熟するのと平行して、デロス同盟は、自らをギリシャ世界の中心と考えるアテネのためのアテネ帝国へと変容を遂げるのです。そしてスパルタは、このようなアテネ帝国に恐怖を覚え、これに対抗するために自らも周辺地域のポリスと同盟関係を結び、やがて前431年にペロポネソス戦争が始まるのです。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.wsu.edu:8080/~dee/GREECE/DELIAN.HTM前掲、及びhttp://en.wikipedia.org/wiki/Cimon(いずれも10月15日アクセス)による。)
<補注 終わり>
(続く)