太田述正コラム#10672(2019.7.12)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その73)>(2019.9.30公開)
クーデンホーフ=カレルギー自身も当時、「汎ヨーロッパ主義」モデルのアジアへの適用可能性を認めています。
彼は1931年11月に汎ヨーロッパ主義運動の機関紙Pan Europaに載せた論文「日本のモンロー主義」(1931年1月の『国際知識』に翻訳・転載)において、日本の「東亜モンロー主義」はアメリカおよび大英帝国のそれぞれの先例に続く「第三のモンロー主義」であり、汎ヨーロッパ主義とも完全に両立すると述べているのです。
⇒カレルギーの言っている「東亜モンロー主義」が日本の(?)誰による主張を指しているのかを三上は明らかにすべきでした。
最初にそれを唱えたのは、近衛篤麿だったようですが・・。↓
「1898年11月、近衛篤麿が「亜細亜のモンロー主義」を打ち出した・・・。第一次世界大戦後のパリ講和会議で人種平等法案が否決され、さらに1924年(大正13年)に排日移民法案が<米>議会を通過すると、日本国内には「アジア同盟で米英に対処すべし」との考えが生まれ高まった。1924年11月28日には、孫文が神戸で「大亜細亜主義」の講<演>を行い<(注84)>、新しい展開が生まれ、<英国>のインドへの圧政とインド人への同情とその後の国際的孤立、欧米列強のブロック経済による経済的圧迫が日本に大アジア主義的思想を育て、それが明治以来のアジア主義や南進論とも重なり、「アジア・モンロー主義」が誕生した。満洲事変以降、ワシントン体制に対抗する論理として本格的な展開を見せる。1934年4月、外務省情報部長であった天羽英二の非公式談話(天羽声明)<(注85)(コラム#4378、4380、4618、4695、4719、4732、4762、5042、5170、5594、9902)>は、欧米から「アジア・モンロー主義宣言」とみなされ、非難された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E4%B8%BB%E7%BE%A9
(注84)「講演は<漢>語で行われ、随行した戴季陶によって日本語に通訳された。
この演説は東洋の王道、西洋の覇道を区分し、東洋の王道をたたえ、その先端を行く日本の近代化への賞賛と行き過ぎによる覇道への傾斜を非難したものとらえる見解が従来有力であった。しかし、近年では、この演説で・・・ソビエトを、自身への援助開始のゆえにおべっか的に礼賛し、反面自身への支援をためらった日本への嫌味をつらねた孫文の独りよがりの見解にすぎなかったとする指摘もあらわれている(渡辺望『蒋介石の密使 辻政信』祥伝社新書 2013年) 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%AC%9B%E6%BC%94
戴季陶(1891~1949年)は、1927年の『日本論』で有名。「戴季陶が日本論を執筆した動機は、田中義一内閣を批判すること、この内閣の対中国政策を日本の最終決定と見なし、その破滅的な結果を予測し、日本人に警告することである。
戴季陶は明治維新を分析し、日本が江戸幕府までの精神遺産により独自の近代化に成功したと説明する。そこで「武士道」に見られる犠牲精神を特筆する。日露戦争後の日本は、「尚武」の気象が国民全体から失われて軍国主義が幅をきかすようになり、他国の侵略に走るようになった、という。・・・
竹内好は、戴季陶が自殺したという説について紹介し、自殺の原因として「中国共産党政権に追いつめられたというより、国民党の腐敗に対する絶望のためではないか」と推測している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B4%E5%AD%A3%E9%99%B6
(注85)「斎藤実内閣の広田外相は34年4月,中国駐在の有吉明公使にあて〈対支国際協力に対する我方の態度等の件〉を指示した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%BE%BD%E5%A3%B0%E6%98%8E-27571
「そこでは,日本の東亜における平和秩序の維持,排日運動の打破,列国の対中国共同動作・・・はそれが財政的または技術的なものであっても・・・反対,列国の対中国策動には〈之を破壊する建前にて進む〉などが述べられてあった。指示は機密とされたが,4月17日天羽は最後の1点を除き,独断でこれを発表し,日本が〈アジア・モンロー主義〉を宣言したものとして,列国の激しい反発を招いた。アメリカの抗議に対し,外務省は天羽声明の趣旨緩和を弁明し,中国における門戸開放,機会均等主義支持を表明したが,その後の日本の行動は声明に沿う方向に進んだ。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E4%B8%BB%E7%BE%A9-25182
孫文の「大亜細亜主義」については、渡辺によるそれに対する批判(「注84」)の具体的内容は知りませんが、日本に通算して10年近く滞在し、重婚でしたが、日本人女性と結婚した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%96%87
こともあり、日本語ができなかったはずがない孫文が、あえて日本語ではなく漢語で講演を行ったことは、彼のこの演説が日本人以外の仮想の聴衆を相手にしたものであることを物語っているように私は思います。
なお、カレルギーの諸主張そのものについてですが、結果として(?)、英国を「ヨーロッパ」から排除したことは是としますが、英国の植民地を含め、欧米諸国の植民地の独立を想定していない、という一点だけとっても、欧州統合を掲げたこと以外はナンセンスである、と言うべきでしょう。(太田)
そしてこの論文は、国際連盟が米国および英国の「モンロー主義」を認めているように、アジアおよびヨーロッパの「モンロー主義」を認め、国際連盟の地域主義的再編成を図るべきであると主張しています。
(続く)