太田述正コラム#10674(2019.7.13)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その74)>(2019.10.1公開)

 日中戦争が勃発し、1938年11月に日本が戦争目的として「東亜新秩序」を唱えるに及んで、「地域主義」は「東亜新秩序」を基礎付ける原理となりました。
 第一次近衛内閣外相有田八郎<(コラム#3784、4274、4374、4392、4618、4998、5440、5569、5592、5686、6274、8342、8362、8390、8412、9902、10674)>は<クレイギー>駐日英国大使に対して、中国の状況は一変したとして、「東亜経済ブロック」論を述べましたが、有田の念頭にあったのは、やはり汎ヨーロッパ主義モデルであり、有田はこれに準拠して、「東亜新秩序」の経済的部分としての「東亜経済ブロック」の存在を正当化しました。

⇒それは、クーデンホーフ=カレルギーの「モデル」だったのかどうかを含め、三谷は最低限の典拠を付すべきでした。(太田)

 また「東亜新秩序」の指導原則として「東亜協同体主義」を挙げる人もいましたが、これは「東亜新秩序」のモデルを米国を中心とするアメリカ大陸の国際秩序に求めるものでした。・・・

⇒「<1938年12月に>蝋山政道の論文「東亜協同体の理論」が『中央公論』に掲載され、これ以後東亜協同体論をめぐる論争が活発となった。・・・当時の近衛文麿首相のブレイン集団である昭和研究会を中心に構想され、三木清・蝋山政道・尾崎秀実・新明正道・加田哲二・杉原正巳らが主要な論者となった。・・・多くの論者は、協同体建設の原理と方向として(1)(西欧的国家原理の中心とみなされた)排他的・閉鎖的なナショナリズムの超克、(2)アジアの解放、(3)ナチズム・ファシズムとの相違、(4)日本の指導的役割、(5)「協同体」の建設と表裏一体に進められる日本国内の改革の必要性<、>を主張する点でほぼ共通していた。・・・また三木清において特に顕著であるが、「世界史的意義」 – すなわち歴史のなかで東亜協同体が出現する必然性が強調されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%8D%94%E5%90%8C%E4%BD%93%E8%AB%96
 このほか、蝋山、尾崎、と並ぶ、東亜協同体主義の主要論者として、高田保馬(注86)を挙げる、名古屋学芸大学の今井隆太のような研究者
https://nufs-nuas.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&meta=%E4%BB%8A%E4%BA%95%E9%9A%86%E5%A4%AA&count=20&order=0&pn=1&st=1&page_id=13&block_id=17 (における、今井隆太「「東亜協同体論」における理想主義」)
もいるところ、「「東亜新秩序」のモデルを米国を中心とするアメリカ大陸の国際秩序に求める」という三谷の主張が彼らに共通していた的な記述どころか、かかる主張そのものへの言及すら、この二つの典拠では見出すことができませんでした。

 (注86)1883~1972年。佐賀県出身。五高、京大哲学科卒、後、京大経済学部教授、阪大法経学部/経済学部教授等。経済学者にして社会学者。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E4%BF%9D%E9%A6%AC

 なお、私として、食い足らない感じが否めないのは、(1)~(5)からは、東亜協同体主義の基盤とも言うべき、思想的・哲学的な共通認識が見えてこない点です。(太田)

 当時の「地域主義」論者にとって、彼らが志向した「東亜新秩序」への主たる障害は二つありました。
 一つは中国民族主義、もう一つは中国民族主義を利用し、これと提携した欧米帝国主義でした。

⇒「中国」民族主義と「漢人」民族主義が異なることを少し前に指摘しましたが、ここでは、「欧米」帝国主義に「ソ連(ロシア)」帝国主義が含まれるのか含まれないのかも、微妙な、いや、重大な、点であり、三谷にははっきりさせてもらいたかったと思います。

(続く)