太田述正コラム#916(2005.10.20)
<シェークスピアをめぐって(その1)>
1 シェークスピアの正体
今回は、ちょっと息抜きをしましょう。
私は、以前(コラム#88で)「シェークスピアの詩人、劇作家としての才能の偉大さには瞳目すべきものがあるとしても、その他の点では、シェークスピアはチューダー朝のイギリスにいくらでもいた、フツーの人だったと考えられるのです。例えば、シェークスピアの恐るべき博識ぶりについては、「こうした知識は、当時は広範な公衆の知識だった。特にロンドンではそうだった」(アンドレ・モロア『英国史』)のであって、基礎的な教育しか受けたことがなく、ストラットフォードとロンドンしか知らない一介の俳優だった彼が、博識であっても何の不思議もないのです。」と記したところです。
(以下、特に断っていない限りhttp://www.sankei.co.jp/news/051006/bun005.htm、http://www.timesonline.co.uk/article/0,,2-1811620,00.html、http://stromata.typepad.com/stromata_blog/2005/09/a_new_shakespea.html(以上いずれも10月6日アクセス)、及びhttp://www.cnn.com/2005/SHOWBIZ/books/10/19/shakespeare.ebate.ap/index.html(10月20日アクセス)による。)
しかし、生地ストラットフォードの中等学校(grammer school)しか出ていない、一介の中産階級の人間にあんな作品が書けるだろうか、とこの通説に首をかしげ、シェークスピア作品の真の作者は別にいる、とする説が昔から手を変え品を変えて出現してきました(注1)。
(注1)クリストファー・マーロウ(Christopher Marlowe)説、フランシス・ベーコン(Francis Bacon)説、 Edward de Vere, 17th Earl of Oxford説等がある。日本で正体探しが盛んに行われてきたところの、寛政6年(1794年)に突然現れて10ヶ月間に約140点の浮世絵の作品を残して忽然と姿を隠した東洲斎写楽(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B4%B2%E6%96%8E%E5%86%99%E6%A5%BD)のことを思い出す。
最新の説を一つご紹介しましょう。
この説は、真の作者はサー・ヘンリー・ネヴィル(Sir Henry Neville。1562??1615年)であるとするものです。
ネヴィルは、廷臣であり、その生涯の大部分の期間下院議員を勤め、駐フランス大使を勤め、イギリス有数の家系に属し、祖先の親戚にシェークスピア(William Shakespeare。1564?1616年。ネヴィルと殆ど同じ生没年であることに注意)の作品に登場する何人もの国王がいる、シェークスピアの遠戚の、激しい反カトリシズムで知られた人物です。
この説によれば、ネヴィルの先祖、例えば「ヘンリー6世・第二部」に登場するRichard Nevil, the Earl of Warwick は、子孫にしか書けない正確さで描写されているし、「リチャード2世」に登場する、やはり先祖であるJohn of Gauntを含め、先祖はみんな好意的に描かれている、というのです。
また、ネヴィルの残した1602年のノートには、「ヘンリー8世」が書かれるより11年も早い時点で、ヘンリー8世(1491?1547年)とその第二のお后のアン・ブーリン(Anne Boleyn)との1533年の結婚式(注2)の模様が記されているというのです。更に、ロンドンの第二バージニア会社(商社)の取締役として、ネヴィルは、その2年後に書かれた「テンペスト」の素材となった1609年のバミューダ沖での難破事故について記した秘扱いの手紙を読むことができる立場だったというのです。
(注2)このヘンリー8世の再婚問題をきっかけとして、英国はカトリック教会から離脱し、国教会がつくられた(コラム#61、504)。
そして、シェークスピアは宮廷での経験がなく、また欧州に行ったことが一度もなかったというのに、彼の書いたとされるものは、作者が、宮廷生活やエリザベス1世(1533?1603年。在位1558?1603年)時代の政治・経済の枢機やイタリア・フランスのことに、これらの国の言葉を含めて、造詣が深いことを示しているところ、ネヴィルは、欧州に行く度となく赴いており、「劇」の中で出てくる様々な都市や場所を訪問していて語学も堪能だったというのです。
かつまたネヴィルは、1601年から1603年にかけて、エリザベス女王廃位の陰謀(注3)に関与した廉でロンドン塔に投獄されており、このことが「劇」が史劇や喜劇から悲劇に変わるきっかけになった(注4)と考えると平仄が合うけれど、シェークスピアにはそんな転機はなかった、というのです。
(注3)エリザベスの愛人の一人であったエセックス(Essex)伯爵が1601年に起こした大逆事件(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B91%E4%B8%96。10月20日アクセス)。
(注4)最初の悲劇である「ハムレット」が書かれたのは1601年から1602年にかけてのことだ。