太田述正コラム#10682(2019.7.17)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その78)>(2019.10.5公開)

 日本の敗戦・・・後のアジアにおいては、一方で日本の敗戦前の「地域主義」から解放されたさまざまの民族主義が自己主張を開始しますが、他方で、英国や日本に代って、非共産圏アジアに対して支配的影響力を獲得するにいたった米国が冷戦の展開に対応して、独自の「地域主義」的国際秩序を構想し、その中に日本を位置づけたからです。
 それは日本をアジアの経済的な地域的中心軸として確立し、共産主義、とくに中国共産主義の進出を抑止しうるアジア独特の国際秩序をつくり上げようとするものでした。・・・

⇒私自身の考えは徐々に進化/深化・・あえてそう言わせてもらいます・・してきたわけですが、少なくとも、スタンフォード大学留学中に思い至ったところの、日本の戦前から戦後への連続性の認識、については、その後、一貫して変わっていません。
 ところが、不思議というか、残念というか、戦後「活躍」してきたところの、日本の近代史学者や政治学者達には、そういう感覚を持った人を殆ど見出すことが出来ません。
 そういう感覚を持っておれば・・いや、より端的に言わせてもらえば、日本の戦前から戦後への連続性は事実であり、その事実に意識的に目を塞ぐようなことさえしなければ・・、三谷は、戦後について、米国ないし日本によるところの、「共産主義、とくに中国共産主義の進出<の>抑止」、などという事実に真っ向から反するトンデモ認識ではなく、「共産主義、とくにソ連共産主義の進出<の>抑止」、という常識的な認識を持つはずであり、かかる認識を持てば、それが、日本が第一次世界大戦中から追求してきたこと、そして、「共産主義」を「潜在敵国」、「ソ連共産主義」を「ロシア」、に置き換えれば、日本が、幕末期以来、先の大戦終了まで追求してきたこと、に気付くはずなのです。
 そして、そこまでくれば、・・ここに若干の想像力/創造力が必要であることは認めますが、・・米国が先の大戦が終わるまで「共産主義」に甘く、「ソ連」と同盟関係にあったことを思い出し、どうして、それにもかかわらず、米国が、戦前の日本の(私の言う、勝海舟通奏低音信奉者達以外の、帝国陸軍を中心としたところの、)リーダー達の大部分が追求してきたところの、180度異なる戦略、を、戦後、全世界にわたって追求するようになったかを不思議に思い、そして、ここが一番想像力/創造力が求められるのですが、ひょっとして、それは、日本の上記リーダー達が意識的にそう仕向けたからではないか、という疑念が頭を過っても不思議ではないのですがねえ。(太田)

 米国が冷戦戦略の一環として課そうとした戦後アジアの「地域主義」は、その防共イデオロギーと日本を中心とする「垂直的国際分業」構想とにおいて、かつての日本が課した「地域主義」–「大東亜新秩序」・「大東亜共栄圏」–を連想させるものでした。・・・
 以上のような形で、日本は米国の冷戦戦略に組み込まれたことによって、日本がかつて東アジアや東南アジアに広がる植民地帝国であった歴史的事実を意識下の海底に放置することになったのです。

⇒「東アジア」について詮索はしないとしても、「東南アジアに広がる植民地帝国」という表現はいただけません。
 日本軍によって先の大戦中に占領下に置かれたところの、東南アジア各地域は、「「占領軍の権力<によって>占領期間の間主権が変更された」とする立場を取る「主権変更説」や、「占領軍は主権を代行しているに過ぎない」とする「主権代行説」、「主権と関係なく無秩序状態を防ぐため」とする「非主権説」がある」とはいえ、あくまでも軍事占領
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%A0%E9%A0%98
されただけであって、日本の主権下に置かれるところの、植民地として、日本に編入されたわけではないからです。
 日本が、これら各地域を、旧宗主国であった英仏蘭に「占領の終了とともに返還されるものと認識」(上掲)していたかどうか、独立させるつもりだったのではないか、はともかくとして・・。(太田)

 そのことが冷戦後、日本を改めて「脱植民地帝国化」の課題に直面させることとなったと考えます。

⇒朝鮮半島については、日本は、法的、タテマエ的、には植民地であると思っていなかったわけです(典拠省略)し、満州国はあくまでも保護国でしかなかったわけですし、南洋諸島は委任統治領であってこれも植民地とは言い切れなかったことから、残るは台湾くらいですが、となると、「脱植民地帝国化」とは大げさな、と言いたくなるところですが、とにかく、先に進みましょう。(太田)

(続く)