太田述正コラム#10686(2019.7.19)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その80)>(2019.10.7公開)
竹山道雄<が嘆いたところの>アジアにおける国境を超えた音楽文化の不在は、少なくとも「ヨーロッパ文化」と同じ意味の「アジア文化」の存在に疑念を抱かせるものです。
津田左右吉(そうきち)<(注91)(コラム#220、233、2524、2888、4145、8940、9653、9953>)が『支那思想と日本』<(注92)>(1938年)という著書において、政治思想、道徳思想、宗教、文学等の比較を通して、日中間の文化的同一性(ひいては「東洋文化」の概念)を否定し、むしろ日本文化と「西洋文化」との共通性を指摘しています。
(注91)1873~1961年。「東京専門学校(後の早稲田大学)邦語政治科卒業。・・・満鉄東京支社嘱託・満鮮地理歴史調査室研究員<当時、>・・・白鳥庫吉の指導を受けた。・・・<その後、>早稲田大学文学部<講師、>教授。・・・
戦後、津田自身の戦前における弾圧の経験とあいまって学界に迎えられ、皇国史観を否定する“津田史観”は第二次世界大戦後の日本史学界の政治的主流とな・・・った。然し一方で、<彼は、>反共産主義者であ・・・った。・・・
儒教は人間性を無視しているとして、<支那>思想は「特殊な否定的なもの」であるとして、<支那>の思想には批判的であった。又、近代西洋文化に対しては肯定的な近代主義者でもあった。「明治人に特有な脱亜論的ナショナリズム」を体現していたとも評価される。・・・
<なお、>津田が歴史史料以外を信用せず、考古学的・民俗学的な知見を無視したことに<は>批判がある。・・・ 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E5%B7%A6%E5%8F%B3%E5%90%89
「《神代史の研究》《古事記及日本書紀の研究》(ともに1924)など一連の古代史研究は,厳密な文献批判によって記紀の成立過程を論証した画期的業績であったが,出版法違反に問われ,1942年有罪とされた(津田事件)。・・・<この>事件の発端は,蓑田胸喜を中心として,権力中枢と結びついて国粋主義の宣伝をしていた原理日本社とその機関誌〈《原理日本》〉が津田に加えた攻撃であった。津田の〈《支那思想と日本》〉(1938)が発表されたころから,蓑田らは,ヨーロッパが一つの文化だというのと同じ意味での東洋文化は歴史的に存在しなかったという論旨を,〈東洋抹殺論〉の提唱だとして非難していた。その非難を決定づけたのが,かねて〈天皇機関説の本山〉として彼らに排撃されていた東京帝大法学部に39年10月新設された東洋政治思想史講座の初講義を,南原繁の懇請に応じて講師として担当したことであった。」
https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E6%94%AF%E9%82%A3%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8B-1332393
(注92)コラム#220、233に、津田のこの著書からの引用が紹介されている。この際、もう一個所、引用しておく。
「言議を好み論弁を好むのが支那人の性癖であるが、それは外に向つて自己を主張し他を説伏せんとするところに本色がある。彼等は思索に長ぜず、反省と内観とを好まない。対するものの心理の機微を捉へて我が言に聴従させようとすることに力を尽くしても、思惟を正確にする方法は考へられず、論理の学は微かにその萌芽を見ながら成長せずして早く枯死し、却つて弁者の弁の如く真偽是非を没却する詭弁の術がそこから発達した。弁者といふのは、ものごとの真偽是非に一定の準則はなく、すべては考へやう次第いひやう次第であるとして、一種の警句めいたいひかたでさまざまにそれを論弁したものである。いくらかの形而上学的思索を試みた道家の所説も半ばは詭弁に堕してゐる。言説の多くが他に対するものであり実際的目的を有するものであるから、その思想は概ね断片的であつて、組織と統一とに欠けてゐる。或はまた自己の主張し又は要望するところを恰も現実に存在するものの如く考へ、それを根拠として理説を立てるのが支那の思想家に通有な態度であつて、儒家や道家の説が空疎に流れてゐるのはさういふところに一つの理由があるが、それは実は実行を要求する道徳や政治の教であるからであつて、畢竟、同じところに由来がある。実行を要求するところから、自己の主張を主張することにのみつとめ、それが実行し得られるかどうかを現実の事態そのものについて考へないのである。」
https://blog.goo.ne.jp/joseph_blog/e/1057e1f789785f636f3138b9bfe5d361
⇒「注92」・・そこで注意喚起した二つの過去コラムも・・を読むと、少なくとも、日中韓(/北朝鮮)のノーベル賞/フィールズ賞受賞者数の差異の根本原因が奈辺にあるかを、津田は若干えげつな気味ではあっても、説得力ある説明をしてくれているように感じますね。(太田)
この見解は、当時の国策を根拠付ける「東亜新秩序」の理念を否定するものとして強い反発を引き起こしましたが、同時にそれは強い説得力をもつものでもありました。
しかし、従来の「アジア文化」の希薄性を示すさまざまの歴史的事実にもかかわらず、「アジア文化」を今日の課題として論ずることは決して無意味ではありません。
特に日本にとって、アジアは単なる地理的概念ではないのです。
今日の日本がアジアの近隣諸国の世論や経済の動向に大きく影響されていることは、日本人の誰もが実感していることでしょう。
その意味で、「アジア」は日本にとって、生活の現実に裏付けられた概念です。
⇒そんなことを言いだしたら、戦前も戦後も、日本は欧米の「世論や経済の動向に大きく影響されていること<を>日本人の誰もが実感している」ところ、三谷は自分が何を書いているのか、分かっているのでしょうか。(太田)
「文化」はこのような生活の現実から生まれます。
津田左右吉が思想史家として重視したのは、生活の現実と結びついている「思想」であり、そのような「思想」を構成要素とする「文化」でした。
(続く)