太田述正コラム#10696(2019.7.24)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その85)>(2019.10.12公開)

 しかし歴史的実態としてのヨーロッパは、いうまでもなく機能の体系としてとらえきれるものではありません。
 そのようなヨーロッパのとらえ方は、ヨーロッパ像を近代に偏った一面的なものにします。
 この点を衝いたのが、明治期においては例外的に深い欧米体験を持った永井荷風<(注103)>でした。

 (注103)1879~1959年。「1903年9月 – 父の勧めで渡米。1905年6月 – ニューヨークに出、翌月からワシントンの日本公使館で働く。12月 – 父の配慮で横浜正金銀行ニューヨーク支店に職を得る。1907年7月 – 父の配慮でフランスの横浜正金銀行リヨン支店に転勤。1908年3月 – 銀行をやめる。2か月ほどパリに遊ぶ。7月 – 神戸に到着」
 旧制高校、大学を出ていないが、「1910年2月 – 慶應義塾大学文学科刷新に際し、森鴎外、上田敏の推薦により、教授に就任。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E8%8D%B7%E9%A2%A8

⇒例えば、外務省のキャリア達は、外務省発足以来、入省後、退職までの間、約半分の年月は外国勤務であり、その中の英語、仏語、独語の各スクールに属する者の比重は大きかったはずであるところ(外務省キャリアとの付き合いを通じての推論)、この例だけとっても、永井が「明治期においては例外的に深い欧米体験を持った」人物である、などとは到底言えません!(太田)

 荷風は1909(明治42)年に発表された「新帰朝者日記」の中で「新帰朝者」に次のようにいわせています。 
  僕の見た処西洋の社会と云ふものは何処まで悉く近代的ではない。
  近代的がどんな事をしても冒す事の出来ない部分が如何なるものにもチャンと残って居る。
  つまり西洋と云ふ処は非常に昔臭い国だ。
  歴史臭い国だ。
 <このような、>ヨーロッパには「近代」に還元されえない本質的なものがあるという荷風の洞察は、後年文芸評論家中村光夫<(注104)に深い感銘を与えました。

 (注104)1911~88年。一高、東大法、翌年東大文仏文科に再入学し卒業。パリ大学留学。明治大学教授。「戦後間もなく、『風俗小説論』で日本の私小説を厳しく批判し、島崎藤村の『破戒』のような本格小説が出たのに、田山花袋の『蒲団』のようなものが出て日本の小説がダメになったと主張した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%85%89%E5%A4%AB
 「しかし、中村光夫は後年私小説を書き、文芸批評でもそれを評価した。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B0%8F%E8%AA%AC

 中村もまた、1942(昭和17)年10月号の『文学界』掲載の大座談会「近代の超克」のために寄稿した「「近代」への疑惑」という論文の中で、「僕等は何故ヨーロッパについてその古さも理解せず、その所謂新しさを追ふ狂態を繰り返して来たのであるか。
 今日僕等の常識化したヨーロッパ観に、何故こういふ重大な遠近法の誤差が生じたのであらうか」という疑問を投げかけています。
 そして、その原因を「機械とこれを運用するに適した社会」としてのヨーロッパのみに着目してきた日本の近代化そのものに帰しているのです。
 
⇒欧州文明諸国に、それら諸国が、プロト欧州文明から、アングロサクソン文明・・「「機械とこれを運用するに適した社会」としての」イギリス・・の少なからざる部分を継受することによって欧州文明へと、いわば無理やり変貌(「進化」)した、という歴史から、プロト欧州文明時代のものが随所に残っているのは当たり前です。
 永井も中村もイギリスでの長期滞在経験がありませんが、三谷を含め、近現代の日本の識者達の、欧州文明とアングロサクソン文明の違いへの鈍感さ、がこういったところにも現れています。
 三谷の場合も、「コロンビア大学東アジア研究所(1969-70年)、ハーヴァード大学東アジア研究所(1970-71年)、オックスフォード大学セント・アントニーズ校(1980年)、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS・1980年)の各校で在外研究。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B0%B7%E5%A4%AA%E4%B8%80%E9%83%8E
と、永井同様米国滞在経験はあるけれど、永井、中村のような欧州滞在経験がない、ということが、同様、エクスキューズとして使えるかもしれませんが・・。(太田)

(続く)