太田述正コラム#10700(2019.7.26)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その87)>(2019.10.14公開)
伊藤博文は1888(明治21)年5月、枢密院における憲法案の審議の開始にあたって、憲法制定の大前提は「我国の基軸」を確定することにあることを指摘し、「ヨーロッパには宗教なる者ありてこれが基軸を為し、深く人心に浸潤して人心此に帰一」している事実に注意を促しています。・・・
今日伊藤自身が直接に聴いたグナイストの講義の記録は残されていませんが、1885(明治18)年に伏見宮貞愛(さだなる)親王が聴いた講義の記録である『グナイスト<(注106)>氏談話』・・・が残されています。
(注106)Heinrich Rudolf Hermann Friedrich von Gneist。1816~95年。ベルリンに生まれ、ベルリン大卒、同大博士、ベルリン大教授、プロイセン上級行政裁判所判事、[プロイセン下院議員、北ドイツ連邦議会議員]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%88
イギリス公法の研究者でそのドイツへの紹介者。例えば、ゲルマン法にかつてあり、イギリス法にある陪審制のドイツへの再導入を提唱。また、文化闘争(Kulturkampf)において激しい反カトリック的スタンスをとった。
https://theodora.com/encyclopedia/g/heinrich_rudolf_hermann_friedrich_gneist.html ([]内も)
文化闘争:「プロテスタントが支配的なプロイセン王国においても、主にオーストリアなど南ドイツで優勢なカトリック教会は、人々の生活のあらゆる面において強い影響力を保持していた。新しく成立したドイツ帝国では、・・・ビスマルクは・・・カトリック教会に対する政治的制御によって教会の政治的・社会的影響力を低下させようとした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E9%97%98%E4%BA%89
これは憲法起草の参考資料として伊藤のもとに提出されたものですが、・・・グナイストは「日本は仏教を以て国教と為すべし」と勧告しました。
そしてグナイストは日本がモデルとした1850年のプロイセン王国憲法の中で、第12条の「信教の自由」の規定は日本の憲法には入れず、改廃の容易な法律に入れるべきこと、さらに第14条の「キリスト教は礼拝と関係する国家の制度の基礎とされる」という条文中の「キリスト教」を日本の場合には「仏教」と置き換えるべきことを説いたのです。
しかし、日本の憲法起草責任者伊藤博文は、・・・我国にあっては宗教なるものの力が微弱であって、一つとして「国家の基軸」たるべきものがなかったのです。
そこで伊藤は「我国にあって基軸とすべきは独り皇室あるのみ」との断案を下します。
「神」の不在が天皇の神格化をもたらしたのです。
福田恆存(つねあり)<(注107)>が著書『近代の宿命』において指摘したように、ヨーロッパ近代は宗教改革を媒介として、ヨーロッパ中世から「神」を継承しましたが、日本近代は維新前後の「廃仏毀釈」政策や運動に象徴されるように、前近代から「神」を継承しませんでした。・・・
(注107)1912~94年。旧制浦和高校、東大英文科卒。「評論家、翻訳家、劇作家、演出家。1969年(昭和44年)から1983年(昭和58年)まで京都産業大学教授を務めた。・・・産経新聞の論壇誌「正論」は、福田と田中美知太郎、小林秀雄等の提唱によって創刊された。文藝春秋社の「文藝春秋」、「諸君」、自由社の「自由」などの保守派雑誌への寄稿でも知られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E6%81%86%E5%AD%98
天皇制はヨーロッパにおけるキリスト教の「機能的等価物」(ウィリアム・ジェームズのいうfunctional equivalent)とみなされたのです。
その意味で日本における近代国家は、ヨーロッパ的近代国家を忠実に、あまりにも忠実になぞった所産でした。
ここには日本近代の推進力であった機能主義的思考様式が最も典型的に貫かれているのを見ることができます。・・・
⇒かねてから、戦前の国家神道は英国教に範を取ったものではないか、と、山勘で申し上げてきた(コラム#省略)ところですが、三谷の記述に触発されて、初めて、少し調べてみた結果、私の山勘が概ね正しかったという心証を得ました。
(後出の囲み記事の「国家神道について]も参照。)
グナイストは、(恐らく、かつて、安土桃山時代にカトリシズムが日本を席捲しかけたことを知っていて、)ドイツ帝国当局が、法王庁という外国勢力の支配下にあるカトリシズム信徒達に手を焼いていて、カトリシズム勢力を、英国教を樹立することで国内から駆逐したイギリスを羨望の念で見ていたので、伏見宮や(恐らくは)伊藤に、仏教でも何でもいいので、外国勢力の支配下にない宗教を国教化することを勧めた、ということだったと思われるからです。
伊藤の1963~64年のイギリス留学はわずか数カ月であり、その時に、彼が、英国王を形式上の首長とする、英国教会、の存在をどの程度認識したかは定かではありませんが、彼の寄宿先のウィリアムソン(Alexander Williamson)の事績には、(彼の埋葬された墓地を含め、)宗教に関わった形跡が全く見られず、
https://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_William_Williamson
https://www.encyclopedia.com/science/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/williamson-alexander-william
https://en.wikipedia.org/wiki/Brookwood_Cemetery
また、彼の、勤務先であり、かつ伊藤もそこで聴講したところの、ロンドン大学も、オックスフォード大やケンブリッジ大とは違って宗教色が全くない大学でした
https://en.wikipedia.org/wiki/University_College_London
から、伊藤が、グナイストから、直接的間接的に、英国教的なものを日本でも、と言われた時の、彼の英国教のイメージが、殆ど目に見えない空気に近いものであったことは想像に難くありません。
伊藤は、このような英国教的なものが、国家神道という形で日本にかつて存在しており、それが明治維新後、事実上復活している、という認識の下、憲法制定が条約改正目的の欧米的体裁作りの一環でもあったこともあり、シュタインの勧告に逆らい、欧米の諸憲法に共通して規定されているところの、宗教の自由、を帝国憲法に盛り込むとともに、国教規定的なものは盛り込まないこととし、その代わり、国家神道の事実上の首長であるところの、天皇と神道との密接不可分の関係性を示唆する記述を帝国憲法の告文や發布勅語に忍ばせることで、間接的に、事実上の国教である国家神道に憲法的根拠らしきものを与えるとともに、かかる国家神道が宗教の自由を侵害するものではないか、との予想される批判に対しては、そもそも神道は宗教とは言えない、という説明が可能であると見たのだろう、と私は思うに至っています。(太田)
(続く)