太田述正コラム#10706(2019.7.29)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その90)>(2019.10.17公開)
ドイツ帝政が・・・中世以来の「聖」と「俗」との価値二元論を前提としていたのに対し、日本の天皇制においては・・・トマス・アクウィナス・・・のいう「霊的なもの」と「地上のもの」とは必ずしも明確には区別されず、「聖職者」と「王」とは一体化していたといってもよいでしょう。・・・
⇒プロト欧州文明においては、「「霊的なもの」と「地上のもの」とは・・・明確に・・・区別され」てこそいたけれど、「ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の間での叙任権闘争を背景に・・・俗権と教権の間<で>明確な境界線が・・・どこに引かれるべきか」争いが絶えなかったところです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E5%89%A3%E8%AB%96
さて、「天皇制においては・・・「聖職者」と「王」とは一体化していた」となると、三谷は、日本の天皇制は神政政治(注110)の一種であったと主張していることになります。
(注110)神権政治ともいう。theocracy。
「このことばを最初に用いたのは、ユダヤの歴史家ヨセフスであるといわれ、彼はこれによって、『旧約聖書』にみられるような、政治的支配および権威の源泉を神に在(あ)るとするイスラエルの特殊な政治形態をさした。・・・
<それは、>聖なる政治規範により支配されている部族ないし国家の統治形態のすべてを意味する。したがって政治形態としては,政治権力者が宗教上の最高権威者と人格的に一致している形態や,政治権力者がみずからを神の威光によって権威づけ,絶対的服従を被支配者に要求する場合,あるいは宗教的権威と世俗権力とが拮抗しつつ,前者が後者を支配する形態など,多様な例が見出される。古代エジプト王,古代イスラエルのダビデ,ソロモン王,11世紀以後のローマ教皇,<欧州>近世の絶対君主,日本の天皇などは,神政政治の支配者として代表的な例である。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E6%94%BF%E6%94%BF%E6%B2%BB-82058
私は、下で述べるように天皇制は基本的に神政政治ではなかったと考えているが、11世紀以後のローマ法王をどう見るかについては判断を留保したい。
支那の皇帝制に関しては、それを神政政治の一種と見ることはできるかもしれません。↓
「皇や帝は、中国神話や先史の三皇五帝を指す名義的な呼称であった。三皇は天空を支配し土塊から最初の人間を作る偉業を成したと信じられた神話的な支配者であり、五帝は、農業や衣服、天文学、国楽を発明したとされる文化英雄であった。紀元前3世紀以前に、「皇」と「帝」の2つの呼称を合わせて用いることはなかった。しかし・・・、秦の当時の王が・・・始皇帝と自称<して、>・・・皇の神のような権力や帝への崇拝、帝の字を「天帝」のように神を表す名称に用いたことなどにより、「皇帝」の称号は、「神聖」や「神君」の意味を含むものと理解されていたと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%B8%9D_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
が、しかし、それは、日本の、邪馬台国の諸女王やヤマト王権の諸天皇には全くあてはまらないのではないでしょうか。
既に、何度か部分的には取り上げたことがありますが、復習も兼ねて・・。↓
邪馬台国について、「弟が政治を補佐したという記述から、巫女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治(ヒメヒコ制)とする」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD
高群逸枝に始まる説
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A1%E3%83%92%E3%82%B3%E5%88%B6
を私は採用しており、日本には、権力の「聖」「俗」二頭制、つまりは、権威と狭義の権力の二頭制、の伝統が昔からあり、これが日本が天皇を戴く国になってしばらく経ってから、摂関政治から始まったところの、権威と権力の二頭制、ないし、権威と権力の分離制、をもたらした、と、私は見ているわけです。
(このシリーズ内でもコラム#10496で、そのことに言及したばかりです。
高群説は有力説ではあっても異論もあるようなので、絶対正しいとまでは言いませんが・・。)
従って、「日本の天皇制においては・・・「聖職者」と「王」とは一体化していた」という三谷の主張は、(ヤマト王権の初期を除き、)私に言わせれば、史実に反しており、誤りです。
仮に、三谷が、戦前までの天皇制についてだけ、ないしは、帝国憲法下の天皇制のことだけ、を言っているのだとしても、それが誤りであることは、明治天皇自身が権力の行使を拒み、首相に権力行使を委ね(コラム#10578等)、かかる憲法的慣行が、大正、昭和両天皇によって受け継がれたことを想起すれば、明らかである、と私は考えているわけです。
この私の考えは、「明治体制と戦後体制に断絶はないと・・・昭和天皇が・・・<事実上、>主張されたこと」(注111)
http://agora-web.jp/archives/2038221.html
にも合致しています。
(注111)「昭和天皇<は、>・・・1977年の記者会見で・・・それ(五箇条の誓文<・・日本における、議論による政治の伝統の宣明(太田)・・を引用する事)が実は、<1946年1月1日のいわゆる「人間宣言」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%AE%A3%E8%A8%80 >
詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題だった。」と語ったことを捉えて、八幡和郎が指摘したもの(上掲)だが、まさに八幡の指摘通りであって、「人間宣言」は、日本における、議論による政治の伝統の宣明、と、天皇の現人神性(神性)の否定、のみならず、当然のことながら、天皇の権威性と非権力性の伝統の宣明、等をも意味していた、と受け止めるべきだろう。
従って、三谷の天皇制論は、(三谷が、日本における、議論による政治の伝統を否定していることもあり、)昭和天皇の考えに真っ向から反している、ということにならざるをえません。
となると、(今なおその職にとどまっているのかどうかは知りませんが、)三谷を2006年に宮内庁参与に就任させた小泉内閣ないし第一次安倍内閣、そしてまた、就任した三谷、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B0%B7%E5%A4%AA%E4%B8%80%E9%83%8E 前掲
のどちらの存念も、私には全く不可解です。(太田)
(続く)