太田述正コラム#10708(2019.7.30)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その91)>(2019.10.18公開)

 プロイセン国王は、ドイツ帝国憲法によってドイツ帝国を構成する各邦や各自治都市を統合し、ドイツ帝国を対外的に代表する元首とされますが、皇帝は各邦の王や各自治都市の市長に対して必ずしも絶対的な優越性をもつものではありません。
 邦や自治都市の皇帝に対する自立性は強固であり、それらの王や市長に対する皇帝の優越性はあくまで相対的にすぎません。・・・
 1916(大正5)年1月の『中央公論』に発表され、大きな反響を呼んだ吉野作造の有名な論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」・・・の中で吉野は次のように述べています。
 ・・・ドイツの社会民主党は・・・ドイツ憲法上の解釈として「ドイツは共和国なり」と主張せんとするのである。
 ただ、普通の共和国と違うところは…これにありては各独立国家そのものが単位である。
 さればドイツ皇帝は・・・プロシャ国王としては<ともかく、>・・・ドイツ皇帝としては・・・ハンブルグやブレーメンなどの自由市の市長となんらその資格を異にするものではないと。
 …かつて皇帝<に>・・・ハンブルグ・・・市長が・・・「我が同役よ[Mein Kollege]」と呼びかけて、座にある人を驚かしたという話がある・・・<、と。>
 吉野は<、この>「解釈上の民主主義の唱えらるるおもしろい例」<、>と<、>・・・彼が当時唱えた<ところの、>・・・初めから君主国体たることの明白なるわが国のごとき<における>「民本主義」<、>とを区別<する。>・・・
 <さて、>プロイセン王国憲法において”unverletzlich”・・・<すなわち、>侵すことができない・・・<という言葉>が用いられているのは、国王(皇帝)の身位についてだけではありません。
 「信書の秘密」(第33条)や「所有権」(第9条)さらに「住居」(第6条)についても同様<に用いられているの>です。・・・
 <ところが、>日本の立法者は、プロイセン王国憲法を大日本帝国憲法に移植する際に、・・・”unverletzlich”は、天皇の身位を形容する場合には「神聖ニシテ侵スヘカラズ」と訳<し>、臣民の権利については単に「侵サルルコトナシ」と訳<し>ているのです。・・・

⇒ドイツ皇帝に関する挿話には興味深いものがあり、そういうものとして受け止めておいてよさそうですが、プロイセン王国憲法の話に関しては、私には異論があります。
 プロイセンにしても、日本にしても、それぞれにとって模範国であったイギリス・・この二カ国に関しては模範君主国でもあったイギリス・・の国制、を継受するにあたって、イギリスに形式的な憲法がなかっただけでなく、国制がコモンローと法律群によって定められていて、用語等を含め、頗る複雑であった<(典拠省略)>こともあって、イギリスの国制的なものを継受して成文憲法化するにあたって、プロイセンに比べて、後発の日本は、より優れたものにすることができた、というのが私の見方なのです。
 イギリスでは、国王の身位については、「コモン・ローでは「国王は過たない<(注112)>」とされており、国王は刑事訴追されることはない<し、>1947年の「国王訴追法」によって、公的地位としての国王(すなわち政府)に対する民事訴訟を起こすことはできる<ようになった>が、国王個人に対しては<、依然、>不可能である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%90%9B%E4%B8%BB
とされており、国王の身位は、法律(議会の意思)によって侵されえないのです。

 (注112)King can do no wrong
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB%E6%A8%A9%E5%85%8D%E8%B2%AC-1336839

 (但し、国王は、議会によって退位させられえます。17世紀にチャールズ1世が処刑という究極の形で退位させられたこと、や、エドワード8世が、議会で選ばれたところの、ボールドウィン首相、に事実上退位させられた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%898%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E7%8E%8B)
こと、等を想起してください。)
 他方、前に(コラム#10261で)指摘したように、イギリスには(天賦)人権概念などそもそも存在しなかったというのに、北米英植民地でいわば発明された人権概念がフランスで人権宣言(1789年)として結実したところ、1850年のプロイセン憲法では、人権の天賦性が否定され、人権は法律によって侵されうるものとなり、人権概念は事実上否定された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%A8%A9
にもかかわらず、人権諸規定の中に”unverletzlich”、すなわち、日本語では「侵されない(不可侵)」、英語では”inviolable”、という、まさに「侵されない(不可侵)」であるところの国王の身位についての言葉と同じ言葉を登場させてしまっていた
https://en.wikisource.org/wiki/Constitution_of_the_Kingdom_of_Prussia
のです。
 伊藤博文らは、このプロイセン憲法をより改善することとし、法律によって侵されえない天皇(国王)の身位と法律によって侵されうる(天賦性が否定された)人権諸規定に共通して登場する”unverletzlich”の訳語について、前者だけに「神聖ニシテ」という文言を付け加える形で訳し分けることによって、日本の国制をプロイセンの国制よりも一層イギリスの国制に近いすっきりしたものにした、と私は見ているのです。
 (帝国憲法から人権諸規定を落としてしまえば、一層すっきりさせることができたわけですが、伊藤らは、盛り込んだ方が、成文憲法であって万国公知のプロイセン憲法との類似性から、日本の国制の近代性をよりアピールできて、不平等条約改正に有利だ、と考えたのではないか、とも。)(太田)

(続く)