太田述正コラム#10710(2019.7.31)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その92)>(2019.10.19公開)
伊藤博文の『憲法義解』は天皇の「神聖不可侵性」について、「法律は君主を責問するの力を有せず。独り不敬を以て其の身体を干瀆すべからざるのみならず、併せて指斥言議の外に在る者とす」との見解を明らかにしています。
いいかえれば、・・・福沢諭吉さえも指摘したように、天皇の「神聖不可侵性」に触れることは、議会における言論の自由の範囲に含まれず、それをも内面から制約する要因となっていました。
しかも天皇の「神聖不可侵性」は単に消極的防御的ではなく、より積極的な倫理的道徳的あるいは半宗教的絶対性を含意していました。
それが憲法起草者伊藤博文のいう「国家の基軸」・・・の究極的意味でした。
⇒伊藤の考えは、要は、全て、天皇の身位はイギリス国王の身位と同じようなものだ、ということだった、というのが私の見方です。
既にご紹介した、イギリス国王の「不可侵」性に係る、King can do no wrongは慣習としての国制であって法律で定められたものではなく、そもそも、議会での議論の対象ではない
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB%E6%A8%A9%E5%85%8D%E8%B2%AC-1336839 前掲
わけですが、イギリス国王の「神聖」性に係る、同国王が英国教の首長であることだって、1531年にSupreme Head of the churchと宣言したのは国王(ヘンリー8世)自身であり、1562年にSupreme Governor of the Church of Englandと命名した・・その後の歴代のイギリス国王は全てこの呼称を用いた・・のは英国教会の規定(Thirty-Nine Articles)においてであり、議会の外でのことだったのですからね。
https://en.wikipedia.org/wiki/Supreme_Head_of_the_Church_of_England
https://en.wikipedia.org/wiki/Supreme_Governor_of_the_Church_of_England
https://en.wikipedia.org/wiki/Thirty-nine_Articles
三谷は、あたかも帝国憲法下の天皇制が非近代的なものであったかのように書いているけれど、それは、現在只今のイギリス王制についても、彼が非近代的な代物である、と考えている場合にのみ許されるのですが・・。
ちなみに、国家神道の事実上の首長の地位を喪ったところの、日本国憲法下の歴代天皇も、神道上の最も重要な儀式を自ら行うほか、勅使の派遣等の形での主要神社群への関与を通じ(典拠省略)、神道全体の事実上の首長の地位の座にとどまり続けているところですが、面白いことに、イギリス国王は、英国教の首長の座に公式にとどまり続けていることはもとよりですが、17世紀に、議会によって公式に否定されたというのに、いまだに、王権神授説を「個人的」に堅持し続けています。(注113)
(注113)リチャード1世(1157~1199年)が、百年戦争の過程で国王紋章に「Dieu et mon droit(神と我が右)」・・国王即位の際に神に右腕を挙げることから来ているとの説が有力・・という王権神授的モットーを書き込んで以来、歴代のイギリス国王がこれを踏襲して現在に至っている。(現在は、英国王のイギリス国王としての紋章に書き込まれている。)
ヘンリー8世は、神から神授された王権を拡張して、神から法王に神授されたはずの聖権まで取り込んで自らを英国教の首長に任じた、というわけだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Divine_right_of_kings
https://en.wikipedia.org/wiki/Dieu_et_mon_droit
1935(昭和10)年の天皇機関説事件において、憲法学者美濃部達吉の学説が反機関説論者によって攻撃された際に一つの争点とされたのが、天皇の詔勅は批判の対象となりうるかという問題でした。・・・
美濃部は、詔勅の責任は、それに副署した内閣総理大臣以下の国務大臣にあり、・・・その責任が問われる詔勅批判は自由であるとの見解をとっていました。
しかし、大日本帝国憲法の下で国務大臣の副署がない例外的な詔勅がありました。・・・
「教育勅語」がそれです。
・・・検事はこの点を・・・追及しました。・・・
(続く)