太田述正コラム#10714(2019.8.2)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その94)>(2019.10.21公開)

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[伊藤博文について]

 このあたりで、伊藤博文自体を俎上に載せておこう。
 伊藤に決定的影響を与えたのは、師の吉田松陰だ。
 松陰は、「才劣り、学幼し。・・・<されど、>俊輔、周旋(政治)の才あり」と伊藤を評したところ、これは、図星だったと思われる。
 ところが、そんな伊藤の名前を「俊輔」に変えさせたのは松陰だから、禅問答みたいな話だ。↓
 「<伊藤の>幼名は利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊<(注117)>輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。」(以下、本文の「」内は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87 前掲
による。)

 (注117)「才知がとび抜けてすぐれている。才知のすぐれた人。」
https://kotobank.jp/word/俊-529619

 そんな伊藤は、「松陰が<1859>年<11>月に安政の大獄で斬首された際、桂の手附として江戸詰めしていた<ため>、師の遺骸を引き取ることなる。このとき、伊藤は自分がしていた帯を遺体に巻いた。」ことによって、松陰との切っても切り離せない因縁を感じたに違いない。
 伊藤が、(恐らく間違いなく、松陰の死後、)「俊輔」から「春輔」に再改名したのは、松陰から与えられた「俊」が負担になっていたからだろう。
 「文久2年(1862年)には公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、8月に自害した来原の葬式に参加、12月に品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加し、山尾庸三と共に塙忠宝・加藤甲次郎を暗殺するなど、尊王攘夷の志士として活動した。」と、テロリストとしての道を歩んだのは、伊藤が、「才劣り、学幼」き自分が「俊」になる方策が分からず、暗中模索し、七転八倒していたことの反映ではなかろうか。
 (それにしても、百姓の倅として生まれ、後に父と共に足軽になった伊藤が、武術を身に着けた形跡はなく、テロリストとして役に立ったのか疑問だ。)
 やがて、伊藤は、暗中に一筋の光を見出す。
 それが、「文久3年(1863年)には井上馨の薦めで海外渡航を決意<ての、>・・・井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(のちの井上勝)らとともに長州五傑の一人として<の英国への>渡航」だ。
 「井上の薦め」ということになっているが、実際は、伊藤による井上への懇願的売り込みがあったことだろう。
 帰国後の伊藤は、雌伏の後、「明治維新後<、>伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、英語に堪能なことを買われて参与、外国事務局判事、大蔵少輔兼民部少輔、初代兵庫県知事(官選)、初代工部卿、宮内卿など明治政府のさまざまな要職を歴任する」運びとなる。
 彼が「博文」へと更に改名したことが多くのことを物語っている。
 本当の「俊」ではなくとも、「博文」でさえあれば、「俊」として通る場合がある、と伊藤は悟ったのではないか。
 「博」くとは言っても、何でもかんでもではなく、英国に係る「文」(情報)について「博」く身に着け続けることがそれだ、と悟り、決意を固めた、というのが私の見立てだ。
 伊藤の言行録の中に、「今日の学問は全て皆、実学である。昔の学問は十中八九までは虚学である」というのがあるが、「今日の学問」とは、もっぱら、自身が身に着け続けたところの、英国の情報を指しており、同じく「われわれに歴史は無い。我々の歴史は、今ここからはじまる」は、日本が可能な限り英国の文物を継受することで、日本は初めて野蛮を脱しうる、という意味だろう。
 大久保利通に、「伊藤は長州の人ではあるが実は天下の英物である。成程才子に相違ないけれども決して君の言う様な才子ぢゃァない。国家経綸上に就いて、自分はモウ悉く伊藤に相談をする。一から十まで話す。鎖港攘夷の時と違うのであるからドウかよく百年の後を達観する程の見識ある人とよく用いなければならぬ。それに当る者は伊藤である。しっかり見識が立ってそうして之れを応用する力の有る人である。私の政策は悉く彼の人に相談する。彼の人と共に談ってやるのである。すっかり信じて秘談を話す」、とまで言わせたのは、伊藤が「俊」だからではなく、伊藤が身に着け続けた英国の文物が伊藤を恐るべき「俊」に見せかけていたからだ、と。
 伊藤が、「帝国憲法を制定する際に担当官に対し、「新憲法を制定するに、伊藤は一法律学者であり、汝らもまた一法律学者である。それ故、我が考えが非也と思わば、どこまでも非也として意見せよ。意見を争わせることがすなわち新憲法を完全ならしめるものである」と訓示し<た>」と、自らを「法律学者」と夜郎自大的に語らせたところのものも、彼の英国の国制に係る圧倒的情報量だ、とも。
 ちなみに、伊藤の子孫の有名人と言えば、玄孫(曽孫の子)まで飛んで、わずかに、駐米大使を務めた藤崎一郎と外相を務めた松本剛明・・従兄弟同士・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B4%8E%E4%B8%80%E9%83%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%89%9B%E6%98%8E
くらいだが、彼らですら、著書・論文類がなさそうなこともあり、失礼ながら知性派であるとは思えず、しかも、ずっと母系のみでご先祖様の伊藤へと繋がっており、要は、伊藤が明治の元勲であったことが、娘や孫娘達等をしかるべき先に嫁ぐことを可能にしたことの賜物である、と見てよい。
 伊藤の「俊」(知力)のほどがうかがわれる、というものだ。
 以下、蛇足だ。
 「<例えば、下掲の>1909年・・・に、韓国駐在の日本人記者を相手にした・・・演説<等で、伊藤が、>・・・日韓併合については懐疑的<である旨を表明>・・・してい<たことはよく知られている>。
 <すなわち、「大韓帝国の>吞噬は日本の意にあらず。韓国人は動もすれば日本の意を誤解す、日本は決して此の如き意思を有する者にあらず、素より之を敢てする者にあらざる也。又今回事件の起生せるを機とし、韓国を併合すべしと論ずる日本人ありと云ふ。余は合併の必要なしと考ふ。合併は却て厄介を増すに過ぎず、宜しく韓国をして自治の能力を養成せしむべき也。縦令国富み兵強くなるも、韓国の戈を倒にして我に打ちかかり来るが如き憂はなかるべし。韓国の富国強兵は日本の希望する所なれども、唯一の制限は韓国が永く日本と親しみ、日本と提携すべき事即ち是也。かの独逸連邦ウルテンブルグの如く韓国を指導し勢力を養成し、財政経済教育を普及して、遂には連邦政治を布くに至るやう之を導くを恐らくは日本の利益なりと、余は信ずる者也。<」と。>」
 この中に登場するウルテンブルクについては、「ザール地方<は、>・・・ドイツの西部、ラインランドとウルテンブルグの間にはさまれライン河の左岸」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10166572&TYPE=HTML_FILE&POS=1
から、どのあたりの地名かは分かるところ、それ以上は調べなかったが、このウルテンブルグへの言及は伊藤の韜晦に過ぎず、実際に彼の念頭にあったのは、英国の経済目的のインド亜大陸統治が、数多くのインド藩王国群を残したまま行われたこと、かつまた、英国とインド亜大陸を結ぶ戦略要衝である中東一体に、安全保障目的でエジプト等の保護国群を設けたこと(典拠省略)、が、英国の海外展開における統治コストの低減化を可能にしたこと、に違いない、と私は見ている。
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(続く)