太田述正コラム#10716(2019.8.3)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その95)>(2019.10.22公開)

 このような宮中の天皇側近勢力と政府の官僚勢力との政治的対立に由来する思想的対立(いわゆる「宮中」と「府中」<(注118)>とのイデオロギー的対立)が続いている限り、日本臣民全体を対象とする道徳に関する唯一絶対の意思形成を天皇の名において行うことは、きわめて困難でした。・・・

 (注118)「宮中・・・の意は宮城内のことで,宮廷とか〈畏(かしこ)き辺(あた)り〉とかと同じ意味に使われる。しかし,歴史的には府中(国家の政治)に対する語として問題とされる。すなわち,近代的な立憲君主制の原則としては,宮中(君主の宮廷事務)と府中(国政)とは分離し,国政についての責任機関が確立していなければならない。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%9C%E4%B8%AD-618954
 ちなみに、「古代の宮内省は、律令制で規定された八省のひとつ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%86%85%E7%9C%81
であり、宮中と府中とは分離されていなかった。

⇒以上、私が説明してきたことを踏まえれば、これを、宮中と府中の対立と捉える三谷は皮相的であり、私の言う、島津斉彬コンセンサス信奉者達と勝海舟通奏低音信奉者達との対立、と捉える必要があるのです。(太田)

 <そんなところへ、>第一次山県有朋・・山県<が>兼任内相・・<という>内閣の下で開かれた1890年2月の地方長官会議・・芳川顕正<(注119)(コラム#9853)>(よしかわあきまさ)<が>・・・出席していた・・は文部大臣に対して、「徳育涵養の義に付建議」を提出するにいたったのです。・・・

 (注119)1842~1920年。「旧徳島藩士から維新後新政府に入る。明治5年(1872年)に大蔵省紙幣頭、同15年(1882年)に東京府知事に就任する。山縣有朋の側近として知られ、・・・、貴族院議員。司法大臣(第5代)、文部大臣(第3代)、内務大臣(第12・16・23代)、逓信大臣(第9・12代)、枢密院副議長(第4代)を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B3%E5%B7%9D%E9%A1%95%E6%AD%A3

⇒日本では、明治以降、どの時代でも、民間委員達による審議会の原案は、担当官僚が執筆し、それが原型をとどめた形で答申が採択されるものと相場が決まっているところ、地方官会議なんて、内務省の下部機関の長達の会議なのですから、その建議に至っては、内務大臣や内務次官の意向を受けて担当官僚が建議を直接執筆したものである、と考えて良いでしょう。
 で、時の首相兼内相が島津斉彬コンセンサス信奉者中の政府内の重鎮の山縣で、内務次官がその子分の芳川だった、のですから、建議が島津斉彬コンセンサスに沿った内容になったのは当然です。(太田)

 建議は「現行の学制に依れば、智育を主として専ら芸術智識のみを進むることを勉め、徳育の一点に於ては全く欠くる所あるが如し」とし<、>・・・その結果、学童生徒の秩序意識が弱まり、反秩序意識が強まっているとします。・・・
 この地方長官会議の問題提起は、閣議の関心を惹き起こしました。・・・
 首相<の>山県<はもちろんですが、>・・・法制局長官<の>井上毅などもこれに同調します。

⇒「閣議の関心を惹き起こしました」などと、三谷が大真面目に書いているので吹き出してしまいました。
 元田とも協議の上で、山縣が、井上を使って閣内の根回しを行い、芳川に地方官会議経由で自分の意向を内閣に建議させた、ということだったのがミエミエだというのに・・。(太田)

 そして閣議では学童生徒のために一篇の「箴言」を与え、これを日夜誦読させ、心に銘記させる措置を施すべきことを決定しました。
 そして天皇から文部大臣に対して「箴言」の編纂が命じられました。
 その後間もなく文部大臣の更迭が行われ、山県の推薦によって、・・・芳川顕正が文部大臣に就任します。
 こうして芳川文相就任を契機として「教育勅語」の起草作業が始まるのです。

(続く)