コラム#10878には「乱丁」があり、ブログでは直しました。
なお、下掲は、上記コラムの前に配信するのを失念していたものです。(太田)
太田述正コラム#10718(2019.8.4)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その96)>(2019.10.23公開)
まず文部省が最初に起草者として選んだのは、当時の帝国大学文科大学教授の中村正直<(コラム#2493、2495、2501、3933、3989、9713、9777、9853、9902、10042)>(号敬宇)でした。・・・
⇒このあたりの話は、以前(コラム#9853で)取り上げたことがありますが、それは、私が、島津斉彬コンセンサスや勝海舟通奏低音を「発見」するより前のことなので、「発見」後の見地から、改めて取り上げている、と、受け止めてください。
中村は、(元々は百姓で幕臣の養子になり同心をやっていた父の子であり、)昌平坂学問所等で学び、同教授、甲府徽典館の学頭、幕府の御用儒者、幕府英留学生監督、訳書『西国立志編』、『自由之理』出版、大蔵省翻訳局長、東大教授、明六社参加、キリスト教徒に、という経歴であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%AD%A3%E7%9B%B4
典型的な、但し、儒教をキリスト教に乗り換えた形の、(私の言う)勝海舟通奏低音信奉者でした。
私がかねてから指摘してきたところの、昌平坂学問所が(教育研究内容を支那文献翻訳学から欧米文献翻訳学に変更しつつ)看板を付け変えて東大になったという「史実」を、前者の教授から後者の教授に「横滑り」した中村が象徴しています。
そんな中村を推薦したということは、「悪意」に基づく当て馬でなかったとすればですが、(東大はもとよりですが、)文部省そのものが勝海舟通奏低音信奉者の巣窟であった、ということでしょう。(太田)
しかし中村によって起草された草案は、文部省から内閣に回され、ここで法制局長官井上毅<(コラム#)>の激烈な批判を浴びて廃案となります。
そして井上が中村に代って新たに草案を起草することになり、ここで起草された井上案がかつての「教学聖旨」の起草者元田永孚の協力を得て修正を重ね、10月30日の勅語の成案となるのです。・・・
井上毅の批判は、1890年6月20日および6月25日付の山県首相宛書簡の中で展開されています。
その第一は、中村案における道徳の宗教的および哲学的基礎づけの排除の主張です。・・・
井上が反対したのは、中村案における朱子学とキリスト教とが一体化した道徳の宗教的哲学的基礎づけ<だったのです。>・・・
批判の第二は、政治的状況判断の混入を排除する主張です。・・・
<その背景にあるのは、>この勅語は国務大臣の輔弼による政治上の勅令や勅語とは異なり、あくまで天皇自身の意思の表明と言う形をとらなければならないという要請です。・・・
以上に述べたような中村案に対する批判を前提として、「教育勅語」の原型が井上によって準備されます。・・・
道徳の本源は中村案における「神」や「天」のような絶対的超越者ではなく、皇祖皇宗、すなわち現実の君主の祖先であるという意味では相対的な、しかし非地上的存在という意味では超越的な、いわば相対的超越者に移りました。・・・
<その>結果、道徳は「皇祖皇宗」の「遺訓」として意味づけられます。
そして現実の天皇は、いわば「先王の道」の祖述者たる孔子のごとき位置づけを与えられるのです。
日用化した五倫<(注120)>(君臣義、父子親、夫婦別、長幼序、朋友信)五常<(注121)>(仁義礼智信)のような儒教的徳目が、「皇祖皇宗」の「遺訓」として列挙されました。
(注120)「孟子においては、秩序ある社会をつくっていくためには何よりも、親や年長者に対する親愛・敬愛を忘れないということが肝要であることを説き、このような心を「孝悌」と名づけた。そして、『孟子』滕文公(とうぶんこう)上篇において、「孝悌」を基軸に、道徳的法則として「五倫」の徳の実践が重要であることを主張した。・・・
なお、[『孟子』と並ぶ四書の一つである]『中庸』ではこれを「五達道」と称し、君臣関係をその第一としている。・・・
この五倫には・・・、男尊女卑や家父長制的思想、先輩・後輩の支配隷属関係、パワーハラスメントなどの原因になっているという主張がある。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%80%AB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9B%B8 ([]内)
(注121)「儒教では、五常(仁、義、礼、智、信)の徳性を拡充することにより、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五倫の道をまっとうすることを説いている(但し“弱者の保護”は説かれていない)。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B8%B8
⇒国学(日本研究)が、明治維新以降、日本の研究機関でまともに行われなくなったため、(私の言う)人間主義概念が、当時は、科学的にはもちろん、哲学的にも「発見」されておらず、仕方なく、儒教的徳目が流用された、ということです。
「注121」の但し書きが示唆しているように、儒教における「最高の道徳」である「仁」(上掲)は、支那においては、一般に「万物一体の仁」ではなかったわけですが、幕末以降の日本においては、「万物一体の仁」と受け止められ、それが、儒教のあるべき核心部分でかつ最も普遍性のある部分であるとの確信の下、(先回りして申し上げれば、)公教育の中で、「万物一体の仁」、すなわち、学童生徒の人間主義性を活性化し維持する徳育が、教育勅語の下で行われるようになった、というのが私の見方です。(後でもう少し詳しく説明します。)(太田)
教育勅語の道徳命題の普遍妥当性、つまり、勅語にいう「古今に通じて謬(あやま)らず、之を中外に施して悖(もと)らず」という意味の普遍妥当性は、その宗教的および哲学的根拠づけが排除された結果、それが専ら歴史を通じて妥当してきたという事実、そして現に妥当しているという事実に求められることになります。
したがって、教育勅語が示す徳目は日用化した儒教的徳目に負うほかはなかったのです。
⇒このくだり、三谷は、まぐれ当たりで、かなりイイ線を行っています。
「古今に通じて謬(あやま)らず、之を中外に施して悖(もと)らず」は、井上らが、「万物一体の仁」が、日本の「歴史を通じて妥当してきたという事実」、それだけではなく、日本人の大半がこの仁を実践してきたという事実、に気付いており、かつ、この仁に普遍妥当性があることを確信していたことの証である、というのが私の見解です。(やはり、後述するところも参照のこと。)(太田)
(続く)