太田述正コラム#10720(2019.8.5)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その97)>(2019.10.24公開)

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[井上毅について]

 井上毅(1844~95年)は、「熊本藩・・・の下級武士<の子。>・・・儒学者木下犀潭(韡村)の塾・・・<と>藩校時習館<で学び、>・・・蟄居していた横井小楠を尋ね討論・・・開国で外国との貿易を盛んにして富国強兵と外国の友好を掲げる小楠に対し、言葉も文化も国の制度も違う外国と日本が上手く交流出来るか怪しい、日本は農業重視の自給自足を貫き外国と貿易をする必要はないと反論、秩序維持の観点から鎖国堅持を主張し<た。>・・・幕府が開設した横浜のフランス語伝習所・・・<、そして、維新後、>大学南校<でも学ぶ。>・・・明治4年(1871年)・・・12月に明治政府の司法省に仕官し、フランス語ができたため司法卿江藤新平に随行する西欧使節団(8人)の一員として明治5年9月に横浜から出航して渡欧(江藤は加わらず)、フランス中心に司法制度の調査研究を行った。ドイツ・ベルリンでは法学<界>で自然法論に対抗して勃興した歴史法学を重視し、民法作成にローマ法・ナポレオン法典を採用する拙速行為に反対する歴史法学を学んで、日本固有の文化・習慣・法律の保持を考えるようになり、ナポレオン法典翻訳による民法制定を企画していた江藤と思想の上で決別した。・・・

⇒井上は、青年時代に、日本文明の独自性と優越性を直覚していたように思われるところ、仏語を身に着け、欧米文献を直接読み始めたことを契機に横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者どころか、日本文明への関心からして、島津斉彬コンセンサス信奉者へ、と、一挙に脱皮した可能性が高い。(太田)

 <明治>6年(1873年)9月6日に帰国、10月に明治六年政変で江藤が下野した後は大久保利通に登用され、明治7年(1874年)2月に佐賀の乱鎮圧に向かった大久保に同行してかつての上司だった江藤の処刑を見届け、同年5月の台湾出兵を片付けるため8月に清へ渡った大久保に随行、清の交渉文書の作成を任された。・・・

⇒大久保が登用したということは、少なくともその時点までに井上が島津斉彬コンセンサス信奉者になっていたと見てよい。
 さもなければ、大久保が、その後1年余、彼を近辺から手放さず行動を共にするわけがない。(太田)

 明治11年(1878年)の大久保の暗殺後は岩倉具視のブレーンとして活躍する一方、伊藤の求めにも応じてしばしば彼の意見書作成に手を貸し・・・た。・・・

⇒大久保亡き後、井上は、勝海舟通奏低音信奉者中の最有力者である伊藤を掣肘する目的で伊藤に近づき、伊藤は、井上の能力、識見を利用する、という一種のギブ・アン・ドテイクの関係が井上、伊藤両名の間で成立した、ということではなかろうか。(太田)

 <この頃から、>『古事記』、『日本書紀』以下の六国史、『令義解』、『古語拾遺』、『万葉集』、『類聚国史』、『延喜式』、『職原鈔』、『大日本史』、『新論』などを研究する。・・・
 明治14年(1881年)3月、有栖川宮熾仁親王の求めに応じ大隈重信と矢野文雄が憲法意見書を提出した際、岩倉から意見を求められるや否や、福澤諭吉の『民情一新』を添えて大隈の意見書との類似を指摘、イギリスに範をとる憲法制度に反対した。6月に外務省雇の法律顧問ロエスレルの協力を得て、『欽定憲法考』、『憲法意見第一』、『憲法綱領』などの調査書類を提出。漸進主義とプロイセン(ドイツ)型国家構想を主張した。・・・

⇒大隈も矢野・・戊辰戦争の時朝廷側に与した豊後佐伯(さいき)藩士出身で慶應義塾卒、同塾講師・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E9%87%8E%E9%BE%8D%E6%B8%93
も島津斉彬コンセンサス信奉者・・大隈はご存知の通り(コラム#省略)だし、矢野は藩論及び慶應義塾との繋がりから・・であり、一方の井上も同信奉者であることから、同信奉者同士の内ゲバということになるが、要は、憲法に、最新のイギリスの国制を採用するか、議院内閣制より前のイギリスの国制・・概ねプロイセンの国制・・を採用するか、の争いだった、と私は想像している。
 なお、どちらの側も、日本の憲法が、対欧米用の見せ金であるという前提で、実際の国制は柔軟に時代に応じて変遷させる、という考えであったのではないか、というのが、私のもう一つの想像だ。(太田)

(続く)