太田述正コラム#10724(2019.8.7)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その99)>(2019.10.26公開)
このように第一草案を起草した井上は、勅語制定過程では・・・山県首相に草案を示した数日後に・・・天皇の側近である侍講元田永孚・・・にもこれを示し、その意見を求めました。・・・
元田は井上とは異なる勅語の構想をもっていましたが、修正過程においては井上案の実質的内容はほとんどそのまま維持され<ました。>・・・
その意味で、教育勅語は井上の背後にある山県、伊藤らに代表される藩閥官僚勢力と、元田らの背後にある天皇側近勢力との共同作品であったといってよいでしょう。・・・
⇒三谷・・がこのシリーズを読んでいればですが・・にも読者の皆さんにも耳タコかもしれないリクツを用いて念押し的に一言。
元田は、「大久保利通の推挙によって宮内省へ出仕し明治天皇の侍読とな<った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%94%B0%E6%B0%B8%E5%AD%9A
ところ、当時、島津斉彬コンセンサス信奉者中の総帥が推挙したということは、元田が、熊本藩士あがりですから、それだけでも島津斉彬コンセンサス信奉者であった可能性が高いところ、筋金入りの同コンセンサス信奉者であったことを示唆しています。
また、大久保暗殺後、大久保に代わって、政府内における島津斉彬コンセンサス信奉者達の総帥となったのが山縣であり、井上は、すぐ上の囲み記事の中で書いたように、大久保子飼いの同コンセンサス信奉者なのですから、「元田は井上とは」ほぼ同じ「勅語の構想をもって」おり、だからこそ、「井上案の実質的内容はほとんどそのまま維持され」たのです。
山縣と示し合わせた元田が天皇に教育勅語的なものの必要性を吹き込み、天皇の意向を受けた形にした上で、山縣が、当て馬に一案を作らせ、それを批判する形で「自然」に本来の意中の井上に原案作成を行わせる運びとしたもの、というのが私の見立てなのです。(太田)
井上は、1890年6月20日付の山県首相宛書簡において、「此勅語は他の普通の政事上の勅語とは同様一例なるべからず」と指摘します。
そして続けて、次のような曲芸的なフィクションを設定し、勅語の性格規定を提言するのです。
「今日之立憲政体之主義に従へば、君主は臣民の良心に干渉せず、(英国・露国にては宗旨上国教主義を存し、君主自ら教主を兼ぬるは格別)今勅語を発して教育の方●<(郷の下に向)>を示さるるは、政事上の命令と区別して、社会上の君主の著作広告として看ざるべからず。」・・・
<その上で、>井上は発布の形式として、政治上の命令から区別する考え方から、国務大臣の副署を要しないものとしました。・・・
⇒既に、1882年(明治15年)に、軍人勅諭(後出)が、大臣の副署なしで発布されたという前例があるにもかかわらず、井上が、軍人勅諭の時そうした理屈とはどうやら異なっているらしい理屈を用いた理由が私には、分かるようで分かりません。(太田)
<そして、>井上は教育会または学習院への行幸に際して、これを下付する方法を最良としていましたが、結局、宮中において文部大臣にこれを下付する方法がとられることとなりました。
こうして教育勅語は立憲君主制の原則との衝突を回避しながら、政治的国家としての明治国家の背後に道徳共同体としての明治国家を現出させるのです。・・・
<この>「政体」と「国体」との相剋は、日本の近代の恒常的な不安定要因でした。・・・
相互矛盾の関係にある両者のうちで、一般国民に対して圧倒的影響力をもったのは憲法ではなく教育勅語であり、・・・「国体」観念は憲法ではなく、勅語によって(あるいはそれを通して)培養されました。
教育勅語は日本の近代における一般国民の公共的価値体系を表現している「市民宗教」(civil religion)の要約であったといってよいでしょう。
⇒これ、三谷、無意識にではないかと思いますが、重要な事実を述べています。
教育勅語は、日本の「一般国民の公共的価値体系を表現し」たものである、と。
ということは、三谷は教育勅語の内容に批判的なのですから、日本の一般国民の公共的価値体系自体に批判的である、ということになりますが、当時の日本の一般国民の公共的価値体系のどこに問題があるというのか、今でも日本の一般国民の公共的価値体系は当時と変っていないという認識なのか、等、一切語ってくれていないのは残念です。(太田)
勅語発布の翌年、1891(明治24)年1月、各地の官立学校では勅語奉読式が行われました。
この<時、>内村鑑三がいわゆる不敬事件<(注123)>をひきおこし<ます。>・・・
(注123)「<一高の>講堂で挙行された教育勅語奉読式において、教員と生徒は順番に教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められた。内村は舎監という教頭に次ぐ地位のため、「奉拝」は三番目だったが、最敬礼をせずに降壇した。このことが同僚・生徒などによって非難され社会問題化する。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのだが、それが不敬事件とされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E9%91%91%E4%B8%89
「最もていねいな敬礼。座礼にもいうが、立礼は、もと、神や天皇にだけ行なった敬礼で、直立不動の姿勢をとり、手を膝に当て、上半身を腰のところで前に折り曲げるもの。
※太政官達第一八号‐明治八年(1875)「最敬礼 即ち従前の磬折にして天皇に対し及び祭祀参拝の節此式を行ふ」」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%80%E6%95%AC%E7%A4%BC-178774
天皇・皇后の「御真影」が小学校に普及したのも「教育勅語」の発布に伴ってでありました。
なお井上毅は第二次伊藤博文内閣の文部大臣当時、「小学校に於て祝日大祭日の儀式を行ふの際、唱歌用に供する歌詞並楽譜」を選定し、明治26年8月12日付の官報に文部省告示第三号として公示しました。
これには「君が代」や「一月一日」「起源説」「天長節」などの他、勝安芳(海舟)作詞の「勅語奉答」も含まれていました。・・・
⇒勝の登場は奇異な感じを受けますが、時の首相が、(私見では)勝と同じく、勝海舟通奏低音新法者であったところの、伊藤だったことから、類は類を呼ぶで伊藤が推薦したのではないか、と、私は想像しています。(太田)
(続く)