太田述正コラム#10726(2019.8.8)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その100)>(2019.10.27公開)
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[立憲君主たる天皇とシラス的天皇]
「明治憲法下の昭和天皇ができるかぎり「立憲君主」の立場を守りたいと望んでいたことは間違いない。皇太子時代に立憲君主制の英国を訪れて王室の「君臨すれども統治せず」というあり方に接したことや、元老の西園寺公望や側近の牧野伸顕らリベラルな人物に囲まれていたことなどの影響が、その背景にはある。また、そもそも明治憲法も<英国の>立憲君主制を念頭に置いて制定された」
https://www.news-postseven.com/archives/20181003_754690.html
といったものが、一般的な認識であると言える。
しかし、そうではないのではないか。
(牧野が「リベラル」なんぞではない話はここでは繰り返さない。)
「元田永孚<は、>・・・明治4年(1871年)・・・5月に藩命および大久保利通の推挙によって宮内省へ出仕し・・・以後20年にわたって天皇への進講を行うことになる。
天皇の教育は・・・『論語』『日本外史』<(注124)>を進講し君徳培養に努め、明治5年(1872年)に太政大臣三条実美に宛てた手紙で儒教による天皇の精神的成長を願う反面、文明開化を批判的に見ていた。
(注124)著者の「頼山陽・・・は朱子学を奉じたが,実用の学たることを重視した。・・・
日本政記<は、>・・・山陽死後の1845年刊<で、>・・・神武天皇から後陽成天皇までの漢文の編年史であるが、史実の記述よりは山陽の史論が中心となっている。・・・」
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%BF%E8%A8%98-110205
⇒大久保利通がわざわざ元田を明治天皇の下に送り込んだのは、大久保が、(自分と同じ、島津斉彬コンセンサス信奉者と見た)元田から、古事記の記述を踏まえたところの、シラス的天皇像を聞かされて瞠目したところ、それを、江戸時代を通じて、全く統治に関わらされてこなかった天皇家に生まれ育った明治天皇に対して、期待される天皇像として、元田によって注入させるのが最大の目的であった、と私は見るに至っている。
そうだとすれば、進講の中心は。『論語』や『日本外史』ではなく、頼山陽のものであれば『日本政記』だったのではなかろうか。(太田)
また宮中と府中(政府)の分離も気に食わず、両者一体となり天皇の輔導に尽くすべきと主張、名実共に天皇を頂点とした政治体制を主張し始めた。・・・
⇒初期から律令制下の時代に至るまで、宮中と府中は分離していなかったではないか、というわけだが、「名実共に天皇を頂点とした」に関しては、それが、シラス的天皇であったことが重要だ。
当然、明治天皇は、シラス的天皇になるべく心掛けることし、これが、子の大正天皇、そして孫の昭和天皇へ、と受け継がれていった、と私は見る。(太田)
5月14日に大久保が不平士族に暗殺され、伊藤博文が大久保の後を継ぎ内務卿として実質的な政府首班に就任したが、元田ら侍補は政府の危機と感じて2日後の16日に天皇に親政実行を直訴、続いて政府にも天皇の閣僚会議臨席および侍補の同席を求めた。
⇒島津斉彬コンセンサス信奉者である山縣有朋や元田が、勝海舟通奏低音信奉者である伊藤に警戒心を抱いたとしても不思議ではない。
明治天皇自身、「伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
というが、これは、元田によるインプットの結果でもあったろう。(太田)
しかし、宮中の政治介入を嫌う政府により後者は拒否、前者は採用され<、憲法にも反映され>たが天皇が政治を行う機会は与えられず空文化に終わったため、<元田らは、>翌明治12年(1879年)3月に政府に天皇親政を中心とした改革案を提出したが、やはり否決された。・・・
⇒これは、元田の勇み足といったところか。(太田)
<しかし、>思想実現を諦めず天皇中心の国家を教育視点に移し、仁義忠孝を重んじた教育を通して国民の天皇への忠誠心を高める方法の実現に動き出し、同年7月に『教学聖旨』(「教学大旨」及び「小学条目二件」<からなる。>)を起草したが、伊藤にすぐさま反論され『教育議』が天皇に提出されると更に反論、収拾がつかなくなり天皇の判断で教学聖旨は破棄された。
⇒元田が、天皇への注入は終わったので、今度は、国民に(私のいう)人間主義活性化を意図した注入を行うべく、欧米化一本やりだった教育の改革を図った、ということであり、彼は、最初から、(熊本藩士、そして、藩校の時習館、の後輩でもあり、同じく島津斉彬コンセンサス信奉者たる)井上毅を仲間に引き入れていた、と見る。
伊藤による反論を井上が事実上代筆した(前出)のは、井上が一層伊藤の信頼を深め、後に教育勅語を起草するための(元田と相談の上とった)布石だった、とも。(太田)
その後明治13年(1880年)に大隈重信の外債募集による政争で・・・再度親政運動の実現に奔走したが、翌14年(1881年)に伊藤が大隈を追放(明治十四年の政変)、親政運動も消滅したことにより一連の運動は挫折したが、元田の意欲は衰えず同年の『幼学綱要』の編纂・頒布(後に刊行中止)、明治13年に天皇中心の国民教化を主張した『国憲大綱』の提出(政府により却下)など独自の国教案実現に向けて進んでいった。・・・
明治20年(1887年)と明治22年(1889年)の<天皇からの>条約改正問題の諮問に応じ、『教学聖旨』、『幼学綱要』、明治23年(1890年)の『教育勅語』の起草への参加などを通じて、儒教による天皇制国家思想の形成に寄与した。・・・
⇒繰り返すが、「儒教による」ではなく、「万物一体の仁(人間主義)による」だ。(太田)
しかし、天皇は次第に伊藤を信頼するようになり、明治19年(1886年)9月7日に両者の間に機務六条が取り交わされ、天皇は普段は政治関与を控え緊急事態に際しての調停役のみを求められる君主機関説を受け入れ、元田らの天皇親政は完全に否定され、宮中の政治介入も排除された。明治21年(1888年)の大日本帝国憲法の枢密院審議に出席したが、皇室を国家の軸とする旨を伊藤が発言したこともあり質問は殆どなかった。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%94%B0%E6%B0%B8%E5%AD%9A
⇒そうではなく、シラス的天皇観が帝国憲法に盛り込まれた、という共通認識でもって、元田と伊藤の間で話がついた、ということだろう。
君主機関説(天皇機関説)については後述する。(太田)
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(続く)