太田述正コラム#10734(2019.8.12)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その104)>(2019.10.31公開)
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[竹橋事件について]
「・・・1878年(明治11)8月23日夜、近衛砲兵大隊の兵営(現在の東京・北の丸公園の一部)から兵卒200余名が蜂起。
制止する大隊長宇都宮茂敏少佐と深沢巳吉(みのきち)大尉を殺害、山砲を発し厩(うまや)に放火、砲兵大隊兵営と向かい合っていた近衛歩兵第二連隊に協同を呼びかけた。
同隊から30余名が呼応。
兵士90余名は山砲一門を引いて、当時仮皇居になっていた赤坂離宮に迫り、天皇に強訴しようとしたが失敗。翌24日午前2時ごろには全員逮捕され鎮圧された。
同日朝から陸軍裁判所で黒川通軌(みちのり)裁判長の下で、反乱兵士にそろばん責め、箱責めの拷問など過酷な糺問が開始され、10月13日兵卒259名の犯罪処分断案を決定(死刑53、准流刑118、徒刑3~1年68、戒役15、杖(じょう)および錮(こ)1、錮4)。10月15日越中島の陸軍刑場で処刑された53名の死刑者は、近衛歩兵第二連隊兵卒1、近衛砲兵大隊兵卒47、東京鎮台予備砲兵第一大隊兵卒5名で、そのほとんどが徴兵農民・平民出身の平均年齢24歳の青年であった。
翌79年4月10日には鎮台予備砲兵大隊の梁田正直曹長と平山荊(いばら)火工下長の死刑が執行された。
暴動関係者として収監中の東京鎮台予備砲兵第一大隊長岡本柳之助(りゅうのすけ)少佐は、同年2月奪官の判決を受け出獄、部下の内山定吾(さだご)砲兵少尉には自裁(切腹)の判決があったが実施されず、82年5月無期流刑に変更された。<(注132)>
(注132)西がその前年に起案し、「明治5年2月18日から明治15年1月1日<に>陸軍刑法・海軍刑法が施行されるまで有効だった・・・海陸軍刑律」
https://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2017/10/177-192_Shinko-TANIGUCHI.pdf 前掲
が適用されたもの。
蜂起の理由は、当時から近年まで、西南戦争の賞典がなかったこと、経費削減による減給、官給品減少などの不満とされてきた。
真相はいまだ闇に包まれている。
しかし現在関係者遺族などの掘り起こし研究が進み、地租改正反対一揆<(注133)>や自由民権運動の影響がみられる史実が明らかにされつつある。・・・
(注133)「1873年(明治6年)7月より明治政府によって推進されてきた地租改正に反対する農民一揆である。・・・
基本的には「全国画一」の地租への統合を従来通りあるいはそれ以上の水準で農民に賦課しようとする明治政府と生活の維持・改善のために生産余剰の確保を求める農民側との対立ということになる。・・・
大きな反対一揆は実際に地価の決定などの作業が進められた1875年(明治8年)から1877年(明治10年)にかけて相次<いだ。>・・・
これに対して明治政府は1877年1月に地租を3%から2.5%に引き下げる決定をしたものの、地租改正事業の中止には応じ<なかった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%A7%9F%E6%94%B9%E6%AD%A3%E5%8F%8D%E5%AF%BE%E4%B8%80%E6%8F%86
徴兵制による創設期の陸軍がフランス式であり,比較的自由な軍隊であったこととも関連するかもしれない。その意味では,この事件は,フランス式からやがてドイツ式へ移行する日本陸軍変質の過渡期の象徴的事件といえよう。・・・
この騒動直後の78年10月、陸軍卿山県有朋の名で軍人訓誡、82年1月軍人勅諭が出されるなど<した。>・・・
岡本柳之助<は、>・・・和歌山藩の砲兵大隊長をつとめ,廃藩後,陸奥宗光らの推薦で陸軍省に出仕,西南戦争には大阪鎮台参謀として参戦した。・・・
後年,陸奥の推挙で朝鮮の宮内府顧問となり,日清戦争後の95年10月,王妃閔妃(びんひ)殺害事件に参画,投獄されたが証拠不十分で免訴。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AB%B9%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6-93099
⇒以上、及び、「百姓一揆<の系譜で、>・・・幕末には世直し一揆、明治には新政府の政策に反対する徴兵令反対一揆や解放令反対一揆、地租改正反対一揆が起こ<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%8F%86
という歴史、に鑑みれば、竹橋事件は、「その<参加者の>ほとんどが徴兵農民・平民出身」であったことからして、最後の百姓一揆であると言えるのでは、と私は思う。
むしろ、これを奇貨として、西が、陸軍卿の山縣に対し、武士出身者の薄れ行く弥生性、及び、農民等出身者の弥生性の欠如、への対策としての弥生性の注入・活性化・維持方策の必要性とかかる方策の基本的指針となるべき勅語の策定について意見具申し、山縣がゴーサインを出したのであろう、と。(太田)
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(続く)