太田述正コラム#10740(2019.8.15)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その107)>(2019.11.3公開)
日本近代の最初の挫折をもたらしたのは、日中戦争と太平洋戦争の敗戦でした。
⇒私なら、当然のことながら、「敗戦」ではなく「勝利」であり、「最初の挫折」ではなく、「発展的継続」ですけどね。(太田)
それは幕末以来の「富国強兵」路線を挫折させたのです。
敗戦後の日本は、日清戦争前の明治日本、すなわち植民地帝国として「富国強兵」の実を備えた日本が出現する前の小国日本への回帰を想定することによって、「富国強兵」路線の修正を図りました。
⇒そうではなく、憲法第9条と保護条約である日米安全保障条約のセットという形での、「「富国強兵」路線の発展的継続を行いました」です。(太田)
それが現行憲法第9条の導入による「強兵」路線の放棄でした。
⇒弥生性を米国のそれを「借用」することによって代替させる形での「強兵」路線の継続であり、そういう意味における「強兵」、ひいては「富国強兵」路線の発展的変更だったのであり、「「強兵」路線の放棄で」は決してありませんでした。(太田)
他方、「文明開化」路線はさまざまな新しい意匠を施され、維持されました。
象徴天皇制もまた、現行憲法の制定過程においては第9条の挿入を前提として制度化され、それと密接に結びつけられました。
⇒昭和天皇、平成天皇は・・そして恐らくは令和天皇も・・、第9条の維持に、自衛隊公式訪問、靖国神社参拝、の回避の形で、異議申し立てを行って来られた以上、象徴天皇制と第9条がセットである、とは到底言えそうもありません。
但し、これら諸天皇が、非軍事に関しては象徴(シラス的)天皇だが、軍事に関してはウシハク的天皇でなければならない、とした、帝国憲法的体制の総体を維持すべきだとお考えなのかどうかは定かではありません。
第一次弥生モードの時代から第二次縄文モードの時代に至る7世紀半の、天皇が軍事に関してもシラス的天皇であった時代を常態である、とお考えなのかどうかが定かではない、という意味で・・。
仮に、この時代を常態であるとお考えだとしても、軍事を国内の武士勢力等にではなく、外国に委ねることに関しては、日本の弥生性の放棄である、として不快感を抱かれている、と、私は推察申し上げているのですが・・。(太田)
戦後日本は国民主権を前提とする「強兵」なき「富国」路線を追求することによって、新しい日本近代を形成したのです。
⇒繰り返しになりますが、間違いです。(太田)
もちろん戦後においても、防衛省設置にいたる日米安保体制下の自衛隊の新設や増強を通して、事実として「強兵」化は行われました。
⇒この意味においては、形の上ではともかく、実質的には「強兵」化は行われているとは必ずしも言えません!(コラム#省略)
まあ、この点に関しては、三谷には土地勘がないでしょうから、余り責められませんが、彼、軍事について若干なりとも土地勘を身に着けることが求められるところの、政治学者、しかも、軍事についての土地勘が不可欠な戦前史を含めた、日本の政治史専攻の政治学者なのですから、困ったものです。(太田)
しかし戦後においては、「強兵」が「富国」と結びついた国家目標として掲げられたことは一度もありませんでした。・・・
⇒再度繰り返しますが、間違いです。(太田)
この路線がさまざまな紆余曲折を貫いて、戦後日本の新しい近代化路線として定着したのです。
⇒戦前の日本は「近代化路線」を歩んできたのではなく、「和魂洋才路線」を歩んできたのであり、戦後も、その路線を基本的に続けて現在に至っているのです。
但し、「和魂」の中の弥生性を殆ど放棄した形で・・。(太田)
ところが・・・2011年3月11日に起きた東日本大震災と原発事故・・・<が>・・・1923年の関東大震災の場合と異なり、過酷な原発事故を伴うことによって、戦後日本の近代化路線そのものに修復がきわめて困難と思われる深刻な挫傷を与えたのです。
⇒到底納得できませんが、とにもかくにも、先に進みましょう。(太田)
(続く)