太田述正コラム#10744(2019.8.17)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その109)>(2019.11.5公開)
「文明開化」<(注140)>「富国強兵」<(注141)>というスローガンによって方向付けられた幕末以来の日本近代化路線は、もっぱら日本国家の対外強化を目的とする一国近代化路線でした。
(注140)「「文明開化」という言葉は福澤諭吉が『文明論之概略』明治8年(1875年)の中で、civilizationの訳語として使ったのが始まりである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%98%8E%E9%96%8B%E5%8C%96
(注141)「<支那>では、春秋戦国時代に諸侯の国が行った政策を「富国強兵」といい、『戦国策』秦策に用例が見える。・・・日本で<使われるようになったのは、>・・・江戸時代中期に太宰春台がその著作『経済録』で富国強兵を「覇者の説」と批判する儒学者を批判して、国家を維持・発展させていくためには富国強兵は欠かせないことを説いた<ことに始まる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%9B%BD%E5%BC%B7%E5%85%B5
⇒「『殖産興業』と『富国強兵』は日本の近代化における合言葉であった・・・<但し、>「殖産興業」という用語が用いられるように なったのは,1880年代に入ってからである」
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=18&ved=2ahUKEwj1oI6d4_XjAhUMfd4KHfamCnQ4ChAWMAd6BAgJEAI&url=https%3A%2F%2Fkusw.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D39%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw2Zzk5SNeMrSmuKKcSMFa1i
という指摘もありますし、「注140」に言う、文明開化なる言葉の由来もあり、果たして、「文明開化」が維新後の日本の合言葉(スローガン)であったかどうかには疑問があります。
なお、「富国」の手段とも言える、殖産興業については、その言葉の由来が分かりませんでした。(太田)
それはアジアに対する「主権線」と「利益線」の拡大を至上目的とし、アジアの優等生を目指してひた走る国際競争路線でした。・・・
⇒それは、島津斉彬コンセンサス信奉者であった山縣有朋が述べたところの、同コンセンサス中の横井小楠コンセンサス部分の話に過ぎないのであって、維新後の日本の対外政策の基本の一部でしかありません。
(更に言えば、横井小楠コンセンサスは、「「主権線」と「利益線」の拡大を至上目的とし」たものではなく、「「主権線」と「利益線」の拡大を手段として対露抑止を図ろうとし」たものでした。)
島津斉彬コンセンサスの残りの部分、というか、核心的部分は、アジアの解放であったのですから、それは、断じて、単に「アジアの優等生を目指してひた走る国際競争路線で」はありませんでした。
それは、「アジアの解放という究極の目標を目指してひた走る、欧米を師とする弟子の出藍の誉れ的路線で」あったのです。(太田)
冷戦の終焉がもたらしたのは、冷戦下の米ソの二極的な覇権構造の解体とそれに伴う国際政治の多極化(もしくはアナーキー化)でした。
それがグローバリゼーションの政治的意味に他なりません。・・・
⇒冷戦の終焉は、日本が米国に全球的に担わせたところの、ロシアの脅威の抑止・解消を図る戦略が大成功を収めた結果なのであり、本来は、その時点で、日本は、残されたアジア解放の成功・・それは、アジア復興なくしてはありえない・・に向けて、米国から「独立」することにより、再び、その対外政策を主体的に展開し始めなければならなかったにもかかわらず、それを怠ったまま現在に至っているのです。
なお、グローバリゼーションは、米ソの二極的な覇権構造・・より正しくは、米国の一極的な覇権構造の下での米ソ(露)冷戦ですが・・の下でも、非ソ連圏において進展していたのであって(典拠省略)、冷戦の終焉とは関係のない事柄でしょう。(太田)
(続く)