太田述正コラム#10764(2019.8.27)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その1)>(2019.11.15公開)
1 始めに
表記の1950年の本の邦訳(筑摩叢書 53。1966年)の、第一部 ヨーロッパとアジア の第一章 序論、第二章 ヨーロッパとアジアの間の初期の交渉、第三章 キリスト教側の努力と通商の企て、第四章 アジアにおけるポルトガル、第五章 ヨーロッパとアジアの対決の一 インド、二 東南アジア、三 シナ、第七章 アジア貿易、第八章 シナにおけるキリスト教 1582~1742年、を、前回のオフ会の「講演」で取り上げ、今度のオフ会の「講演」でも取り上げる予定ですが、それらと並行する形で、シリーズでもって、第五章 四 日本、第六章 日本におけるキリスト教 1549~1614年、及び、第二部 日本と西欧世界 1600~1894年 第九章 徳川政体、以降、を、コラム・シリーズで取り上げることにしました。
2 サンソム『西欧世界と日本』を読む
(1)第五章 四 日本
「・・・インド<と>シナ両国の住民たちは最初にポルトガル人と遭遇したとき、彼らの武器に何ら特別の関心を示さず、また彼らを粗野な蛮人ぐらいにしか見なさなかった<が、>・・・154<3>年・・・に日本に漂着したポルトガル人は火縄銃を携行していた<ところ、>・・・日本人に非常な興奮をおこさせ・・・異国人を手厚く遇し、最初の渡来後間もなく宣教師や貿易商人があいついで訪れ、彼らはたいした困難もなく、日本国民やその支配者たちと友好関係を結ぶことができたのである。・・・」(上136.以下、「上」を略す)
⇒サンソムはくだくだとこのことについて説明を試みているところ、全て省略しますが、これぞ、私の言う、縄文的弥生性ってやつです。
インドにも支那にも、縄文性も弥生性もないのですから、縄文的弥生性もまたないのです。
なお、「インド<と>シナ両国の住民たちは最初にポルトガル人と遭遇したとき」の具体的な説明とその典拠を知りたかったところです。(太田)
(2)第五章 五 国際社会
「・・・アジアの思想が西欧の影響により乱されることがほとんどなかった半面、アジアにおけるさまざまの出来事は、ヨーロッパの知的生活に新しい運動を起こさせた」(145)
⇒これは、欧州諸国の本格的なアジア進出まで、せいぜい、本格的なアジア進出の初期まで、のこととして、サンソムがしばしば言及していることですが、そろそろ、誰かが、それ以降、現在に至る、欧米とアジアとの間の思想/知的生活の交流の全体像を描いて欲しいものです。
もちろん、その中では、仏教に主たる淵源を持つ、瞑想の欧米への普及が言及されることでしょうが、今後、(文明としては)日本に淵源を持つ・・と言ってもよい・・人間主義(縄文性)が、支那を中心とするアジアだけにとどまらず、欧米に普及普及するかどうかに、私は興味を抱いています。(太田)
(3)第六章 日本におけるキリスト教 1549~1614年
「・・・ザビエルが日本訪問について書いたいくつかの報告書は、熱狂的な調子で書かれていた。
彼は言った。
「日本人は、今までに発見された最良の国民であり、私には異教徒の間で、日本人にまさるものはまずまず見つかるまいと思われる」と。・・・」(147)
⇒「今までに発見された最良の国民」には欧州諸国を含んでいない可能性が高いところ、いずれにせよ、ザビエル<(注1)>が、「異教」徒達の間でこのように高い評価を下さざるを得なかった国民に遭遇したことで、キリスト教そのものの意義について疑問を抱いたふしがないこと、が、私には不思議で仕方ありません。(太田)
(注1)Francisco de Xavier。1506~52年。バスク人の国、ナバラ王国の貴族の子として生まれ、パリ大学に留学し、哲学を学んでいたが、イグナチオ・デ・ロヨラに感化され、聖職者を志し、その他5人とともに1534年にイエズス会を設立し、1537年に司祭に叙階された。宣教すべく、1542年にゴア、1545年にマラッカ、1546年にモルッカ諸島、1549年に日本に赴いた。「彼ら日本人は予の魂の歓びなり」という彼の言葉が残されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%AB
(続く)