太田述正コラム#10766(2019.8.28)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その2)>(2019.11.16公開)

 「イエズス会士たちの説いた教義に対して、日本人が提唱した主な異論のひとつは、ザビエル自身も書いたように、こうした教義は過去においてかつて日本に啓示されたことがなかったということ、したがって、自分たちの祖先が地獄に堕ちる不幸を負わされたというのは不当である、というものだった。
 この苦情に答えて、宣教師たちはこう論じた。
 すべて人間はその心の中で殺戮・偸盗・偽証その他の破戒行為が悪であることを知っており、それ故異教の民もまた教えられることなく、十戒を心得ているのです、と。」(156)

⇒「すべて人間は・・・を知っている」というのはほぼウソであることをザビエルらは知っている・・どうしてかは、次回の東京オフ会「講演」に譲る・・くせに、よくもまあ臆面もなくこんな説明ができたものです。
 もとより、この説明でも、殆どが人間主義者であるところの、日本人達はある程度納得したと想像されるものの、それならそれで、どうして、わざわざキリスト教に入信する必要があるのか、という論議が両者の間で交わされなかったのでしょうかねえ。(太田)

 「東アジアの他の地方に住む人々の大部分にとっては、キリスト教布教記録から判断するならば、贖罪の教義は嫌悪を催おさせるものであった。
 彼らは、一人の神格者<(イエス)>が拷問にあって死ぬという考えに衝撃を受け、血を象徴として扱わねばならないような論を忌み嫌った。
 このことは、とりわけ仏教国についていえることだけに、日本において嗜虐性(マゾヒズム)の傾向が見出されることは多少驚くべきことである。・・・
 日本人がその全歴史を通じて、平時にも戦時にも、甘んじて死の苦痛を受け、また進んでこれを人に与える点で著しい国民であったことは疑いない事実である。
 そしてこのことは、日本のキリスト教徒が迫害を受けた時の残忍さの理由ともなれば、また日本人が殉教に赴いた時の毅然たる態度の理由ともなるであろう。・・・」(166)

⇒こちらは、日本人の弥生性の話です。
 日本人の縄文性と弥生性が相俟ってキリスト教入信者の急速な増大をもたらした、ということになりそうですね。
 支那や朝鮮半島だけでなく、南アジアや東南アジアでも弥生性が希薄である、という指摘とも受け止められますが、ヒンドゥー教が内包する弥生性はホンモノではなかった、ということになりそうですね。
 これ、今後の検討課題にしておきましょう。
 とまれ、そうであるとすれば、スペイン領となったフィリピンが、南、東南、東アジアの中で唯一キリスト教国になった理由も、改めて不思議に思えてきました。(太田)

 「・・・オルガンチノ<(注2)>・・・の手紙の一通には、次のような興味深い一節がある。

 (注2)ニェッキ・ソルディ・オルガンティノ(Organtino Gnecchi‐Soldo/ Gnecchi‐Soldi。1533~1609年)。北イタリアで生まれ、イエズス会に入会し、ゴア経由で1573年に来日。長崎で没した。「書簡の中で「われら(<欧州>人)はたがいに賢明に見えるが、彼ら(日本人)と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。(中略)私には全世界じゅうでこれほど天賦の才能をもつ国民はないと思われる」と述べている<(コラム#10763)>。また、「日本人は怒りを表すことを好まず、儀礼的な丁寧さを好み、贈り物や親切を受けた場合はそれと同等のものを返礼しなくてはならないと感じ、互いを褒め、相手を侮辱することを好まない」とも述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E

⇒オルガンチノについても、ザビエル同様、キリスト教の意義にどうして疑問を持たなかったのか、が私には不思議でなりません。(太田)

 「われわれの慰めは、われわれがいま日本で、かつてイギリスのわれわれの聖なる殉教者たちが受けた試練と艱難とを分ちあっていると考えることです。」
 この面白い比較によって、オルガンティノは無意識のうちに、両国で行なわれた迫害の背後に強い政治的な動機があったという事実を立証したのである。
 エリザベス時代のイギリスにおけるイエズス会士と日本におけるイエズス会士とは、ともに国内の不和を助長することによって、国家の安全を脅かす世俗的権力の手先として怖れられていたのである。・・・」(167)

⇒17世紀初めには、日本とイギリスは、(事実上、)第一次日英同盟関係にあった、と、ずっと以前に記したところです(コラム#省略)。(太田)
 
(続く)