太田述正コラム#10768(2019.8.29)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その3)>(2019.11.17公開)
「・・・なぜキリスト教の教理が、他の進んだアジア諸国民の心に対してより、はるかに強く日本人の心に訴えるところがあったのかを理解することは易しいことではないが、しかし、たぶん日本のキリスト教徒が達した恍惚状態と、浄土宗・法華宗の信者たちが享受した恍惚状態との間の類似にひとつの解決の鍵があると思われる。
浄土宗と法華宗とは、ともに明らかに日本人が独自に編み出した仏教宗派であるが、浄土宗については蓮如上人の『御文』の中に、この点を明らかにするくだりがいくつか見える。・・・
<例えば、ウレシサヲ> ムカシハソデニ ツヽミケリ コヨヒハ身ニモ アマリヌルカナ<だ。>・・・
⇒「キリスト教に触れた大名たちの中にも、洗礼を受けるものが現れた。彼らがキリスト教を信仰した理由は、キリスト教の理念に真剣に惹かれた者の他、単に南蛮との貿易をより円滑かつ大規模に行いたいため、または南蛮の文化や科学技術を習得する目的から信仰するようになった者もいた。彼らはキリシタン大名と呼ばれており、特に有名なものとして大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、結城忠正、高山友照および高山右近親子、小西行長、蒲生氏郷などがいる。・・・
織田信長は宣教師たちに対して好意的であった。信長の後を継いだ豊臣秀吉も基本的に信長の政策を継承し、宣教師に対して寛大であった。 ・・・
イエズス会の宣教方針に則り、日本における宣教方針は、日本の伝統文化と生活様式を尊重すること、日本人司祭や司教を養成して日本の教会を司牧させることにおかれた。これは同時代のヨーロッパ人の、非ヨーロッパ文化に対する態度としては他に例をみないものであった。「適応主義」と呼ばれたこの指針によって日本での宣教は順調に進んだ。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%8F%B2
というわけで、通説は、信長/秀吉といった最強/最高権力者の寛容さや多数の好意的な大名達の存在と宣教師達の柔軟な姿勢をもっぱら挙げており、サンソムのように内在的要因を挙げる見解は少ないようですね。
私も、どちらかと言えば通説的スタンスであり、日本人の縄文性が客人たる宣教師達を歓待せしめ、また、日本人の弥生性が宣教師達が携えてきた新知識や新技術や科学の習得意欲を掻き立て、キリスト教(カトリシズム)にもその一環として関心を抱いたから、だと思っています。(太田)
浄土宗が一番しっかりと根を下ろしていた地方には、キリスト教への改宗者が僅かしかなかった点は、たぶん意味ぶかいことであろう。
この現象はおそらく浄土宗の信者たちが、自分たちの信仰で満足していたからにちがいない。
同様なことが法華宗についてもいえる。
法華宗徒は、太鼓を叩き、くり返し御題目を唱えることによって黙示録的な幻影を見、恍惚状態に達し、また極度の昂奮状態に陥ったのである。
きわめて初歩的な愉しみ以外のすべてを奪われていた庶民にとっては、「信仰復興運動家(リバイバリスト)<(注3)>」ふうの会合が魅力であったことは疑いない。
(注3)「国民のほとんどがキリスト教徒と言われてはいるが、全員が信仰を持っているとはいえなかった18世紀の<米国>において、信仰的熱心さと教会成長を伴う信仰運動が勃発・拡散した歴史的事象は、「信仰復興」の意でリバイバルと呼ばれてきた。ウェスレー、ホイットフィールド、ジョナサン・エドワーズらリバイバリストの指導によるリバイバルは特に大覚醒と呼ばれている。・・・
リバイバルへの非難と反対運動は常に見られた。その例として、ウェスレーやホイットフィールドは、当時の教義学を重視する教会から熱狂主義者と非難された。ジョナサン・エドワーズは、聖餐に改心体験の告白を必須としたことから反発を受け、牧師の職務を解任された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%AB_(%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99)
⇒「中世には、現世に失望し来世の幸福を願い沢山の人々が寺院へ巡礼し<、>やがて、神社にも巡礼が盛んになった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%94%AD%E5%8F%82%E3%82%8A
ところ、神社には祭礼もあり、また、祭礼の際には「花の下連歌」の会があらゆる階層の人々に開かれていた(コラム#10564)というのに、サンソムは、よくもまあ、「きわめて初歩的な愉しみ以外のすべてを奪われていた庶民」などと断定してくれたものです。
まあ、こういったことこそ、少年時代から日本で祭礼に参加しながら育ったたわけではない、ガイジンの彼を責めるのは酷かもしれませんがね。(太田)
称名による救済を説く浄土の教義に多少類似する点があることも言いたしておいてよかろう。・・・」(169~171)
(続く)