太田述正コラム#10782(2019.9.5)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その10)>(2019.11.24公開)
「・・・17世紀末–元禄と呼ばれる・・・時代・・・の文化は、その生き生きとした審美的な質という点で、当時のヨーロッパが示したいずれの文化と比べても、有利な地位を占めるものであろう。・・・」(246)
⇒具体的に、それぞれの文化のクリエイター達や作品群を持ち出して比較してくれていないのが残念です。(太田)
「・・・徳川時代の学問のもつひとつの重要な特徴・・・は、当代の指導的な政治哲学者達が経済問題に多大の注意を払ったことである。
⇒これに続くサンソムの記述を読むと、一体、彼が、日本以外のどこの国または地域の「指導的な政治哲学者達」と比較して、「重要な特徴」だと書いたのか、首を捻ってしまいます。(太田)
早くも1712年(正徳2)に新井白石<(注8)>という幕府の儒官がおり、彼の生来の興味は典礼儀式に向っていたが、その彼が通貨問題に没頭し、また貨幣理論についての著述に専念した。
(注8)1657~1725年。「一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の7代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てた・・・
第5代将軍・徳川綱吉の時代に荻原重秀の通貨政策により大量に鋳造された元禄金銀および宝永金銀を回収し、徳川家康の「貨幣は尊敬すべき材料により吹きたてるよう」の言葉に忠実に慶長金銀の品位に復帰する、良質の正徳金銀を鋳造して、主観的にはインフレの沈静に努めた。だが、実際には経済成長に伴う自然な通貨需要増に対応した前政権の政策を無にする結果となったとも言われる。白石は、日本橋のたもとに高札を立てて意見を求めるところまで追い込まれた。
<また、>開幕以来の長崎貿易で大量の金銀が海外に流出した結果として、長崎貿易そのものが困難となった。そのため貿易を基盤としていた長崎は困窮し、人口の減少や打ちこわしに悩まされた。白石は長崎の困窮を解決するため、貿易そのものを縮小する政策(海舶互市新例)を取った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BA%95%E7%99%BD%E7%9F%B3
彼のあとには、すぐれた儒学者荻生徂徠<(注9)>や三浦梅園<(注10)>が現れて、今なお経済学者を悩ましている諸問題と取りくみ、価値とか、価格とか、その他通常の学問領域からは遠ざかった諸問題に関するいくつかの理論を提出した。・・・
(注9)1666~1728年。「父は5代将軍・徳川綱吉の侍医<だった。>・・・柳沢吉保<や>・・・徳川吉宗の・・・諮問にあずかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0
彼は、「都市と田舎の境界がなくなってしまった・・・ため、どこまでが江戸の内で、ここから田舎という限度がなくなってしまっている・・・。
勝手に家を建てならべていった結果、江戸の範囲は年々に拡がってゆき、誰が許可を与えたというわけでもなく、奉行や役人の中にも誰ひとり気がつく人もいない間に、いつの間にか北は千住、南は品川まで家つづきになってしまった。
従って、都市と田舎の境界がなければ、農民はしだいに商人に変わっていき、生産者が減少して国は貧しくなるものである」と『政談』の中で唱えた。
https://shutou.jp/post-2865/
(注10)1723~89年。「思想家、自然哲学者、本職は医者。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%A2%85%E5%9C%92
『価原』・・「題名は価(賃金,物価)とは何か,価の本質,の意」・・の中で、「貨幣数量説(〈金銀多ければ物価貴し金銀少ければ物価賤し〉),グレシャムの法則(〈悪幣盛んに世に行はるれば精金皆隠る〉)を主張していることを」、河上肇、ついで福田徳三が「指摘して・・・有名になった」。
「梅園の哲学「条理学」を当時の経済問題――奉公人賃銀の変動、農民の離村、農産物価格の不安定性など――に適用し、作物の豊凶・貨幣流通量・物価・労賃の間の基本的関係を考察している。その分析方法「条理学」は、明末清初の中国の自然哲学などを梅園が吸収して独自に体系化したものであるが、本書でも経済現象を仮想の一島に抽象化して考察するなど、その科学的方法は注目すべきものであり、欧米の経済学や学問的方法との類似も指摘されている。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BE%A1%E5%8E%9F-43960
⇒経済政策に関しては、白石は落第生、徂徠はアナクロ、だったけれど、梅園は、哲学者のみならず、経済学者としても一定の水準に達していた、と言えそうですね。
梅園の主著の『玄語』
http://www.coara.or.jp/~baika/wiki/guidance.html
、一度は読むべきかもしれませんが、ちょっと歯が立たないかも。(太田)
シナの・・・聖人たちは<経済>問題を道徳哲学の一分野と見なした<ところ、>・・・この態度は、・・・日本の学者たちの大多数の態度でもあった。
彼らの観念は、中世ヨーロッパの哲学者たちのそれとも似ていないわけではなかった。
というのは、教会が、経済問題を倫理的な条件の中で考えていたからである。・・・」(248~249)
(続く)