太田述正コラム#10784(2019.9.6)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その11)>(2019.11.25公開)

 「・・・たぶん18世紀の日本における天文学研究のもっとも顕著な特徴は、学者たちの熱心さではなくて、コペルニクスの体系がいかに容易に受け入れられたかというその容易さにある。
 日本においては、シナにおいてと同様、この体系は宗教的基礎に立つ反対に逢うことがなかった。
 というのは、極東の信仰が、なんら人間中心ないし地球中心でなく、したがって、地球を一惑星なりとし、人間の重要性を縮小させた一理論によって、それが危険にさらされるとは考えられなかったからである。・・・」(249~250)

⇒時代的制約から、サンソムを責めることはできないけれど、このような欧州と支那/日本の対比は、そもそも、間違いです。↓
 「地動説がキリスト教の宗教家によって迫害されたという主張がされる<が、このような、>・・・「科学者」と「宗教家」の勇壮な戦いという19世紀後半に考案され普及した闘争モデルは、<もはや>、科学史家は皆否定している・・・。・・・<欧州>近世初期の自然哲学者は、自然を知ることは神を理解することであると考えており、信仰と科学的探究に矛盾はなかった<からだ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%8B%95%E8%AA%AC
 なお、「古代<支那にも>、Heliocentrism<(太陽中心説)>とは異質の宇宙観ではあるものの、「地右動」「地動則見於天象」「地恒動不止」など明確に「地動」を説く、文字通りの地動説<が>あった」(上掲)ところです。
 なお、日本での地動説受容の経緯は以下の通りです。↓
 「徳川家治の時代になって、通詞の本木良永が『和蘭地球図説』と『天地二球用法』の中で日本で最初にコペルニクスの地動説を紹介した。本木良永の弟子の志筑忠雄が『暦象新書』の中でケプラーの法則やニュートン力学を紹介した。画家の司馬江漢が『和蘭天説』で地動説などの西洋天文学を紹介し、『和蘭天球図』という星図を作った。旗本の片山松斎(円然)は司馬江漢から地動説のことを教えられ、『天文略名目』など地動説を紹介する著作を著している。医者の麻田剛立が1763年に、世界で初めてケプラーの楕円軌道の地動説を用いての日食の日時の予測をした。」(上掲)(太田)

 「・・・興味深いのは、商取引に対する国家の干渉という習慣が、18世紀の間に展開され、19世紀に受けつがれて、日本が近代工業国家へと発展し始めるにつれて、それが日本の経済政策に影響をあたえたという事実である。・・・」(253)

⇒サンソムが、「日本が近代工業国家へと発展し始めるにあたって」ではなく、「日本が近代工業国家へと発展し始めるにつれて」、と書いたのは、江戸時代の経済体制的なものが、後に復活した、とも、(深読み過ぎかもしれないけれど、)読めるのであって、少なくとも、丸山眞男や三谷太一郎などよりは、サンソム、筋がよさそうです。(太田)

 「・・・シナの聖人たちの大部分は、人間は生まれつき有徳であり、政治がよければ人間を正しく保たせることができると考えた。
 有力な少数者だけが、人間性は救い難いほど悪なるものであると考えたが、徂徠は、この憂鬱ではあるが、しかしもっともな見解をとったのである。・・・」(264)

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[荀子と徂徠]

 「荀子は人間の性を「悪」すなわち利己的存在と認め、君子は本性を「偽」すなわち後天的努力(すなわち学問を修めること)によって修正して善へと向かい、統治者となるべきことを勧めた。この性悪説の立場から、孟子の性善説を荀子は批判した。
<すなわち、>富国篇で、荀子は人間の「性」(本性)は限度のない欲望だという前提から、各人が社会の秩序なしに無限の欲望を満たそうとすれば、奪い合い・殺し合いが生じて社会は混乱して窮乏する、と考えた。それゆえに人間はあえて君主の権力に服従してその規範(=「礼」)に従うことによって生命を安全として窮乏から脱出した、と説いた。
このような思想は、社会契約説の一種であるとも評価される。
 <また、>荀子は規範(=「礼」)の起源を社会の安全と経済的繁栄のために制定されたところに見出し、高貴な者と一般人民との身分的・経済的差別は、人間の欲望実現の力に差別を設け欲望が衝突することを防止して、欲しい物資と嫌がる労役が身分に応じて各人に相応に配分されるために必要な制度である、と正当化する。そのために非楽(音楽の排斥)・節葬(葬儀の簡略化)・節用(生活の倹約)を主張して君主は自ら働くことを主張する墨家を、倹約を強制することは人間の本性に反し、なおかつ上下の身分差別をなくすことは欲望の衝突を招き、結果社会に混乱をもたらすだけであると批判した。
荀子の実力主義による昇進降格と身分による経済格差の正当化は、メリトクラシーとして表裏一体である。・・・
 徂徠は「荀子は子・孟(子思と孟子)の忠臣なり」と言い、彼の言うところによれば荀子は子思や孟子の理論的過ちを正した忠臣といえる存在であり、荀子のほうが孔子が伝えようとした先王の道(子思・孟子の言う儒家者流の倫理ではなく、先王が制定した礼楽刑政の統治制度)をよく叙述していた<、と主張した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E5%AD%90
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⇒サンソムは、人間主義的な意味において、人間は性善であるとは思っていなかったわけであり、そんなことでは、日本文明の何たるかが真の意味で理解できるはずはないのであって、ここはザンネンと言う他ないですね。(太田)

(続く)