太田述正コラム#10786(2019.9.7)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その12)>(2019.11.26公開)

 「・・・田沼時代<(注11)>は、悪政の時代であり、しかも支配階級の道徳的規準の低下した時代であった。
 江戸の社会生活を示す当時の記事は、豪奢な饗宴、酔っ払い、賭けごと、その他この国の文化は極端な衰退期にあったことを示すほどの放蕩ぶりを描いている。・・・

 (注11)「田沼時代とは、・・・老中・田沼意次が幕政に参与していた時期を中心とした時代区分。史学上は宝暦・天明期として、宝暦・明和・安永・天明期(1751年-1789年)、すなわち享保の改革と寛政の改革の間の約半世紀の時代を指す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%99%82%E4%BB%A3

⇒これも、サンソムは、当時の通説に拠って書いており、今や、誤りと言ってもいいでしょう。↓
 「戦前に・・・辻善之助・・・<が>『田沼時代』<(1915年)で>・・・指摘した通り<(但し、「注12」参照(太田)>、<田沼>時代を混濁腐敗の暗黒時代と見るのではなく、
一、民意の伸長、
二、因襲主義の破壊・・町人から幕府が、換言すれば市民から政府が継続的に税収を得ることは、近代以降としては当然の政策であるが、農民からの年貢が基本であった当時の政治の認識からは異例の政策であり、特に遊女屋などの賎職からも運上金を集めたことは批判があった。・・・また、意次が例えば平賀源内や工藤平助などの下級身分や町人を能力次第で重用したり、場合によっては帯刀を許したことも、当時からすれば身分秩序の破壊であったし、ロシアとの外交政策も旧来の幕法を犯すものとして批判された・・、
三、思想の自由と学問芸術の発達、加えて
四、開国思想、
が起こった社会変革期と見なすことが通説となっている。
 また、これも<既に>辻が指摘し<てい>た通り、意次の登場によって唐突に新しい時代が到来したのではなく、洋書輸入の解禁や株仲間の結成など享保期の政策が実を結んだのが田沼時代であって、現代において田沼時代(宝暦-天明)は、まず享保期からの連続性の中で論ずるのが通説となっている
 大石慎三郎は、辻以来、確定的であった意次自身の汚職に関して<すら>嫌疑を示し、これらを彼の失脚後などに政敵の松平定信などが作り出した話だと論ずる。・・・特に大石は同時代の別人、それこそ松平武元や松平定信といった清廉なイメージがあった政治家には贈収賄があった史料が残っているのに対し、むしろ意次の方にはそれが皆無だったと指摘する。ただし、大石はだからと言って意次が清廉潔白な政治家だったとは断定できないし、当時の政治の常道としての賄賂や、特に現代で言うお歳暮程度の贈収賄はよくあったとも述べている。いずれにしても、大石は同時代が汚職の時代であったことや、一般民衆が意次を批判していたことを否定しているわけではない。」(上掲)(太田)

 不正に満ちた田沼政治さえも、まじめなよい意図をもった松平定信や水野忠邦の政策が本質的には反動的ないしせいぜい消極的な性格のものであった限りにおいて、積極面をいくつかもっているのである。・・・」(265~266)

⇒サンソムは、(当たり前ですが、)辻善之助(注12)の説を知っていた可能性が・・。(太田)

 (注12)1877~1955年。三高/一高、東大(国史)卒、同大博士。東大助教授、欧米留学、東大教授。
 「1934年、斎藤実内閣の商工大臣中島久万吉が辻の論文「足利尊氏の信仰」(『日本仏教史之研究』所収)に依拠して足利尊氏擁護を行うと、右翼の批判を浴びて大臣を辞任、矛先は辻にも向けられ、『日本仏教史之研究』は文部省教学局の要請により絶版に追い込まれた。
 また、武家政権出現の必然性を説くため平清盛を論じ、後白河法皇に批判が及ぶと、これを収録した『人物論叢』もやはり、文部省教学局に自発的絶版を求められている。」
 ちなみに、辻は田沼を収賄政治家として描いたが、「後年、大石慎三郎は辻が<この点の>・・・論拠とした史料は「つくられた悪評」であり、史料批判に乏しかったとする。また、大石は辻の著作が田沼悪人説の根拠として利用され、現代にも根強く残る田沼のイメージになったと論ずる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E5%96%84%E4%B9%8B%E5%8A%A9
 大石慎三郎(1923~2004年)。東大文(国史)卒、同大博士。最終的に学習院大経済学部教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E6%85%8E%E4%B8%89%E9%83%8E

(続く)