太田述正コラム#10796(2019.9.12)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その17)>(2019.12.1公開)

 「1868年(明治元)に起こったのは、過去との突然の断絶ではなくて、たんに速度の集中であったのである。
 西欧勢力が果した役割を過大評価することは、日本の近代史の理解を誤まることであり、結果として、東西関係について誤りとはいえないまでも、均衡を欠いた見解を抱く結果となる。・・・

⇒ここは同意です。(太田)

 徳川時代における百姓一揆の記録ぐらい、徐々にではあるが、一見不可避的に、巨大な幕府の安定性が崩壊していく過程を明確に示すものはない。
 すでに徳川時代以前に農民騒擾は一般化していたが、時代のたつとともに、ますます頻繁となり、はげしさを加え、19世紀初期には風土病のごときものになったといってさしつかえない。<(注22)>・・・」(281~282)

 (注22)「青木虹二(こうじ)という研究者は3000件以上の抗議行動、俗に一揆と呼ばれているものを採集したらしい。その成果を時代別にわけてみると次のようになるそうです。
—[い]1590年~1639年(慶長・寛永期) 年平均3.9件
—[ろ]1640年~1679年(慶安・寛文・延宝期) 年平均4.6件
—[は]1680年~1719年(元禄・正徳期) 年平均6.2件
—[に]1720年~1769年(享保・宝暦期) 年平均10.6件
—[ほ]1770年~1829年(天明・寛政・化政期) 年平均13.6件
—[へ]1830年~1871年(天保・幕末維新期) 年平均25.0件
(横山十四男「百姓一揆と義民伝承」教育社歴史新書、昭和52年(1977年))」
http://blog.q-q.jp/201305/article_14.html

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[百姓一揆について]

 「江戸時代の年貢率は時が経つとともに下がり、三公七民以下になったが、実際には年貢率1割以下だったともされている。税率が下がったのは、江戸時代以降に検地がほとんど行われていないからであった。つまり江戸時代に新田開発や農業技術の進歩して米の収穫量が増えたが、昔の収穫高を基準にして年貢率を決めていたからである。さらに農民は商品作物を栽培してそこからの利益もあり、経済的に余裕があったのである。・・・
 農民の中からは二宮尊徳のような学者も多く出ており、幕末の新選組を組織した近藤勇や土方歳三も農民の出身である。近藤や土方が相当な剣の使い手になれたのは、子供の頃から武家以上に剣術に励むだけの経済力があったからである。・・・
 農民は・・・むしろ明治時代の方が貧困になっている。」
https://www.cool-susan.com/2016/10/22/%E8%BE%B2%E6%B0%91%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B4%BB/
 もとより、飢饉の時は話は別だ。
 江戸時代最大の飢饉であった、天明の大飢饉の時の悲惨な状況を見よ。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%98%8E%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89
 天明の大飢饉は自然環境要因によるもの(上掲)だが、そのほか、「百姓たちの・・・支出増加と、米価下落による家計バランスの崩れが、<もたらした>飢饉」
http://www2.ttcn.ne.jp/kazumatsu/sub229.htm
もあった。
 但し、「一揆の要求は、封建制の改廃を求めるものではなく、百姓経営が「成立(なりたち)」うる「仁政」を施行することを求めるものであった。そして悪政を具体的に指摘する論理は、新規課役であること、それを旧来の定法に戻すことと隣領や天下一統の法・慣習に違反していること、にあった。これは一揆の行動やいでたちにも明確に現れている。一揆は、初期の土豪一揆を除き、領主と武力衝突するものは存在しない。得物(えもの)として鎌(かま)や鍬(くわ)などとともに竹槍も持たれたが、防衛的なものであって、武器として使用されることは基本的になかった。鉄砲を持つこともあるが、百姓らが結集するための鳴物(なりもの)として鐘・太鼓・ときの声などとともに使われる例が多い。衣装も蓑笠(みのかさ)などの農民らしい姿で出てくることが求められた。・・・
 <また、>一揆は個々の百姓の結集ではなく、村々の結合として組織された。」
https://kotobank.jp/word/%E7%99%BE%E5%A7%93%E4%B8%80%E6%8F%86-120956
 結局、百姓一揆は、幕府や各藩による統治への民衆の基本的信頼があったからこそ起こったところの、民衆の統治への参画であった、ということであり、一揆の頻度・激しさの高まりは、基本的には、民衆の統治への参画意識の高まりによる、というのが私の見解だ。
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⇒江戸時代に百姓一揆が次第に増えて行ったというのはその通りですが、戦後直後に闊歩していたところの、日本のマルクス主義史学の通説によったと思われるところの、サンソムの、百姓一揆への評価は、上の囲み記事を読めば分かるように、誤りです。(太田)

(続く)