太田述正コラム#10810(2019.9.19)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その24)>(2019.12.8公開)
「・・・このことは維新運動と、その結果である日本の諸制度の改変との性質に重要な意味を持つのである。
その理由は、以上ふたつとも改革者の仕事であり、そうして彼らは一面において進歩的であると同時に他面において保守的であり、彼らの動機中には、徹底的手段による農業状態の改善を望む何らの痕跡も見いだせない。
実に、彼らの初期に行なった改革のあるものが、農村住民の犠牲においてなされた事実は、農民騒動が維新後の最初の十年間、減少するどころか増大したことから明らかである。
⇒「維新後の最初の十年間」、殖産興業/富国強兵の原資を、政府は主として農民に求めるほかなかったことは、日本にはるかに遅れてスターリンがソ連(ロシア)の急速な工業化・軍拡を図った時に農民から収奪したのと基本的に同じことであり、他に手段はなかった、ということにサンソムは目を瞑っています。(太田)
幕末、もしも日本の農民の間に何らかの組織化され、首尾一貫する感情が存在したならば、日本の政治発展過程は、その時期以降、暴力と分裂が伴ったかもしれない。
しかし事実は、それが回避された。
これは日本民衆の従順性のおかげであって、それは厳格とまでいかなくても、徳川ならびにその家臣たちが長年にわたり築き上げた堅固な統治の伝統に由来した。
⇒「幕末、・・・日本の農民の間に何らかの組織化され、首尾一貫する感情が存在」しなかったこと、や、日本の維新後の政府が「農民から<の>収奪」にあたって、スターリンのような強圧的方法をとる必要がなく、「農民騒動<の>増大」も大したものではなかったこと、は、繰り返しになりますが、日本で、一貫して、被治者と治者との間に、基本的な信頼関係があったからこそなのです。(太田)
幾世紀間も屈服していたため、農民の中に劣等感がこびりつき、それは明治初年においても強かった・・・
福沢諭吉・・・は強い平等主義感覚を抱いた人であったが、それでも農民に対し武士にありがちな命令調を使わないで話しかけるのに、ときどき困難を感じたと・・・自伝・・・の中で告白している。
彼がとくに態度をやわらげようと配慮しなければ、農民は、へつらうほどではないにしても、きわめてうやうやしく彼に向った。・・・」(298)
⇒これも、その根底に、被治者たる農民の間に、治者たる武士に対する、基本的信頼感に由来する敬意があったればこそである、と私は思います。(太田)
「・・・「打ち毀し」<(注25)>(粉砕の意)と呼ばれた米騒動<(注26)>は、18世紀はじめから、ごくありふれたものになっていたが、1837年(天保8)に生じたものは、武士が率いたことにより、特殊な意義をもった。
(注25)「江戸時代の民衆運動の形態のうち、不正を働いたとみなされた者の家屋などを破壊する行為のこと。
近世日本の都市部において町人同士の相互扶助である合力が発展し、富裕町人による町方施行が成立した享保年間の頃から、仁政と呼ばれる社会正義思想が形成された。仁政とは、為政者は富者の私欲の追求を規制して弱者の生活が立ち行かなくなることを防ぎ、富者は私欲を自制し、飢饉や災害が発生した時は率先して施米などを行って弱者を救うべき、という為政者・富者に課された責務であり、公的収奪にせよ私的収奪にせよ、この責務を果たせない為政者・富者は「不徳」として糾弾された。
主に都市部において、買い占めなどによる物価高騰の原因とされた者に対して行われることが多いが、百姓一揆に伴って、領主の悪政と結びついたとされた特権商人や村役人に対して行われることもあった。家財の略奪なども行われたが、一方で正当な制裁行為であることを主張するために、家屋の破壊だけにとどめ、略奪や放火は厳に戒められた事例も多く知られている。 打ちこわしを主導したものは処罰されたが、打ちこわしの正当性が地域社会で広く認識されている場合は、役人もその結果を容認し打ちこわしを受けた側も処罰を受けたり、面目を失い立ち退くこともあった。
都市における最初の打ちこわしは、元禄16年(1703年)に長崎で発生し、享保18年(1733年)には江戸でも初めて発生した。それ以後も飢饉や政情不安などによりしばしば発生し、特に物価が急に上がった幕末にかけて増加した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E3%81%A1%E3%81%93%E3%82%8F%E3%81%97
(注26)「米の流通量の減少や価格高騰によって民衆が米を入手しづらくなることが要因となって起こる、騒ぎなどのことである。・・・
発生契機としては、凶作による米不足や米価格の暴騰が直接的な要因になる事が多い。
単純な「米価格の暴騰に伴う民衆暴動」という定義の騒動は、江戸時代の享保の大飢饉の頃から幾度となく発生している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95
⇒打ち毀しと米騒動は、重なり合う部分こそあれど、あくまでも次元の異なる二つの事象なので、サンソムの記述は不正確です。
なお、打ち毀しだって、繰り返し指摘しているところの、被治者の治者に対する基本的信頼感がその原動力となるとともに、その目的の限定性をももたらしている、ということが「注25」から分かります。(太田)
これは、その後国内各地で生じた他の先例を開くこととなった。
首謀者は大塩平八郎・・・であった。・・・」(301)
(続く)