太田述正コラム#10812(2019.9.20)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その25)>(2019.12.9公開)

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[殖産興業と農業]

 「・・・殖産興業・・・政策の施行過程で内務省は勧農政策に重点を置くようになり、・・・博覧会や共進会、農事会(農談会)等を開催し、これらを系統的に組織することにより国内<農>業の近代化をはかったのである。
 殖産興業政策に関する研究は工業部門に重点がおかれ、農業部門は軽視されて<きた>のが現状であり、このような中で、・・・<勧農政策は、>「ほとんど成果を収めることができなかった」と解釈されて<きたが、それは、>・・・分析が十分になされないまま、・・・否定的に評価されて<きたため>である。・・・」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sehs/67/6/67_KJ00003579563/_pdf/-char/ja
 上掲は、國雄行<(注27)>「内務省の勧農政策(1873~1881年)–勧業諸会の分析を中心に–」(『社会経済史学』67-6(2002年3月))から抽出したものだが、サンソムの維新後の農村政策の記述もまた、当時の通説の悲観主義的見解に沿ったものであったというべきだろう。

 (注27)くにたきゆき(1964年~)。「中央大学<にて>・・・「博覧会の時代」で博士(史学)。神奈川県立博物館学芸部、東京都立短期大学講師、助教授、首都大学東京准教授を経て、教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%8B%E9%9B%84%E8%A1%8C
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 「・・・1841年6月(天保12年5月)に、・・・高島秋帆・・・は首都付近の閲兵場で近代式歩兵調練や大砲の演習を行なってみせた。
 彼は演習や閲兵の重要性にとりつかれているようであった。・・・
 幕府は褒賞を与え、幕府の幹部将校だけに、新しい流儀の教授をするように、ただし他の者にしてはならぬと、彼に命令した。
 このただし書は興味ぶかい。
 なぜならば全国的危機にあっても、幕府は、もしも封建諸侯がすぐれた武器を獲得して、その使用法を覚えた場合、その武器が幕府自体に向けられるのではないかという危惧を抱いていたことを表わしているからである。

⇒仮に、「だけ」とか、「ただし書」の話が本当だとしても、それが守られたとは思えません。
 「幕臣の・・・下曽根信敦・・・および少し遅れて江川英龍<(太郎左衛門)>が幕命により高島流砲術を学ぶために<正式に秋帆に>弟子入りして西洋流砲術を取得することが定められ・・・<、その後>下曽根は塾を開き砲術の普及に努め・・・下曽根の塾<には、>江川の塾<同様、>西洋式兵制を学ぶために諸大名以下多くの門弟が集」り、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%9B%BD%E6%A0%B9%E4%BF%A1%E6%95%A6
「<松代藩士>佐久間象山・<幕臣>大鳥圭介・<越前藩>橋本左内・<長州藩>桂小五郎(後の木戸孝允)・<薩摩藩>伊東祐亨などが・・・江川・・・の門下で学んでいる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B7%9D%E8%8B%B1%E9%BE%8D
からです。
 私自身は、むしろ、幕府は、なかなか懐が広かったな、と思います。
 なお、「天保年間 (1830~44) に・・・幕藩体制は・・・深刻な動揺をみせ,綱紀紊乱,財政の窮乏,武士の困窮,農村・都市生活の退廃など,多方面の政策転換を迫られていた」ことは事実ながら、「老中水野忠邦を首班として天保 12 (41) 年5月から<幕府は>改革に着手<し、>享保,寛政の改革を目標とし,風俗矯正,質素倹約をはじめ生活全般にわたる統制を行い,農村人口を維持するため「人返し」政策をと<り、更に、>株仲間を解散して物価の引下げをはかり,印旛沼開発などにも着手したが,大名や旗本の抵抗を受けた上知令<(注28)>によって<水野が2年後に>失脚し<て改革は失敗に終わったものの、>西南雄藩の藩政改革は財政的な面で多くが成功し<た>」、
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9-102775
ということから、幕府こそ「深刻な動揺」が続くことになったけれど、雄藩の中には「深刻な動揺」を乗り切ったところも少なからずあった以上、サンソムの「全国的危機」という言葉に惑わされないようにすべきでしょうね。(太田)

 (注28)「江戸や大阪の周囲の大名・旗本の領地を幕府の直轄地とし、地方に分散していた直轄地を集中させようとした。これによって幕府の行政機構を強化するとともに、江戸・大阪周囲の治安の維持を図ろうとした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9

 けれども、この制限はやがて解除され、秋帆の知識は全国中に広まったが、それにとくに力をかした人は・・・有力な幕府役人江川太郎左衛門・・・であり、彼が学校を開いたのはこの目的であった。
 彼の子弟の中に佐久間象山という人物がいたが、象山はその後西洋の科学知識の日本導入に、中心的役割を演ずることとなった。・・・」(311~312)

(続く)