太田述正コラム#10820(2019.9.24)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その26)>(2019.12.13公開)
「・・・反動派の不興を蒙ったのは、・・・秋帆・・・が、外国貿易は日本経済を維持し、固有文化の停滞を阻止するために必要であるとの理由から、開国を強力に唱導したためであった・・・
⇒ここは、サンソムの勘違いではないでしょうか。
というのも、高島秋帆は、「鎖国・海防政策の誤りに気付き、開国・交易説に転じて・・・開国・通商をすべきとする『嘉永上書』を幕府に提出<したところ、>・・・幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配および師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力」する運びになった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E7%A7%8B%E5%B8%86 前掲
、と、「開国を強力に唱導した」ことが、むしろ、それまでの、彼に対する「反動派」の画策による幕府内での「不興」の解消をもたらしている(上掲)からです。(太田)
熱心で有力な洋学の推奨者<の>・・・佐久間象山・・・もその・・・同じ結論<の>・・・見解のために難を受けた。・・・
⇒ここも不正確であり、ペリー来航時に、象山は、「象山は「急務十条」という報告書を老中首座の阿部正弘に奏上し・・・西洋事情の調査と国力を充実させるための政策を実施するようにと提言し」ています
https://app.k-server.info/history/sakuma_shouzan/5/
が、それでもって罰せられたわけではなく、「松蔭の<密>渡航の相談に乗ったとも、促したとも言われており、このために連座して罪に問われ」た(上掲)のですからね。(太田)
幕府崩壊に終わる反幕・尊王運動の諸原因中、もっとも有力であったのが若い武士たちの野心であったことには疑う余地がない。
農民の不満、経済の窮迫、財政の失態、–これらすべてをもってしても、自己の才能を働かし、立身出世することを求めた、少数の元気に満ちた人々の実り多い熱意がなかったならば、変化を起こさせるのに十分ではなかっただろう。
西欧文化が、彼らの精神に強い印象を残したことは疑いのないところだが、西洋の影響力の増大を研究するにあたっては、問題の若者の多くは、最初蘭学にひかれたが、それというのも、自分たちが下級武士としての通常の義務だけに終始する限り与えられぬ昇進の機会を、それにより与えられるためであったという想起することが重要である。」(312~314)
⇒サンソムの「下級武士達の立身出世欲が明治維新の原動力」説は刺激的です。
ただ、この説、「疑う余地がない」どは言い難いのであって、維新政府の重鎮達を輩出したところの、薩長土肥といった外様の諸雄藩の「若い武士達」に関しては、必ずしもあてはまらないのではないでしょうか。
例えば、薩摩藩では、西郷隆盛や大久保通がその典型ですが、斉彬や久光に目をかけられるかどうかが決定的に重要であったところ、そのためには、むしろ、「通常の義務だけに」とは言いませんが、極力、「通常の義務に」「終始する」ことが求められたからです。(典拠省略)
実際、「幕末;立身出世」でネット検索をかけてみても、上位に出て来るのは、新選組の隊士になった近藤勇等の庶民達、
https://bushoojapan.com/scandal/2019/04/30/5420
小藩の津和野藩出身の西周、
https://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/1a7fc3bd340e2d3731b89d382db3cd94
幕臣は幕臣でも徒士の子として生まれた川路聖謨、
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163174006
下級公家に生まれた岩倉具視、
https://meiji-revolution.com/tomomi-iwakura-367
といった面々であり、そもそも武士ではなかったところの、最後の岩倉を除けば、維新より前に悲劇的な死を迎えたケースが多く、維新政府の重鎮にまで上り詰めることができたケースはありません。(太田)
(続く)