太田述正コラム#10822(2019.9.25)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その27)>(2019.12.14公開)

 「・・・<横井>小楠が、大海軍の必要を感じていたとはいえ、日本の拡大は物質力よりも道徳力により行なわれるべきだ、ということを心から信奉していたことは確かと思われる。・・・

⇒サンソムが典拠を示していないのは残念です。(太田)

 <ところが、>歴史家の徳富蘇峰は・・・初期の対外交渉主張者の表をかかげ、・・・本多利明<(注29)、佐藤信淵<(注30)(コラム#4004、7645、8464)>、それに横井小楠は、無制限の拡大政策を是認したと・・・言っている。

 (注29)1743~1821年。素性不明。「18歳で江戸に出て、・・・天文学・・・<、>関流和算などを学ぶ。諸国の物産を調査し、1766年(明和2年)24歳の時、江戸に算学・天文の私塾を開き、以後晩年にいたるまで、浪人として門弟の教育に当たるとともに著述に専心した。一時は加賀藩の前田家に出仕する。1781年(天明元年)39歳の頃から北方問題へ関心を強め、危機意識を持った。1787年(天明7年)奥羽地方を旅し、天明の大飢饉に苦しむ会津藩・仙台藩などの農村の悲惨さを目のあたりにした。これらが主な動機となって、彼の関心は経世論<(経済思想)>に向かった。・・・
 急進的な欧化主義者であり、蝦夷地の開発や海外領土の獲得、幕府主導の交易、開国論、重商主義などを説く。特に幕藩体制を越えて国家が貿易をはじめとする商業全般を掌るべきとの考えを示し、広く未開の地を開拓せよと説き、欧州国家を見習って植民地政策の必要性も説いている。幕府老中の田沼意次が蝦夷調査団を派遣する際には、下僕の最上徳内を推薦する。
 漢字を放棄して能率的なアルファベットを導入せよと説いた他、ロンドンと同じ緯度に遷都すれば日本の首都もロンドン同様に繁栄するであろうとの理由から、カムチャツカ半島への遷都を説くなど、その主張には矯激な部分もあった。<欧州>諸国をあまりに理想化していたがために、自国の分析が観念的で現実からかけ離れた、時代にそぐわない見通しにな<ってしまった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%88%A9%E6%98%8E
 (注30)1769~1850年。「『経済要録』<で>・・・強大な中央集権的政府を構想し、政府が中心となって国土を開発し、諸産業をおこして政府統制下におき、秩序ある交易を振興し、国を富まし、もって国民生活の安定を計るべきことを説<き、>・・・『垂統秘録』<で、>・・・一種、国家社会主義的とみなされる日本を構想しており、とりわけ、「病養館」という現在の国立保養所や国民健康保険につながる考え、また、「慈育館」「遊児館」という、貧困家庭の無償保育の場を設けよという主張<、を提示し、>・・・『宇内混同秘策』(あるいは単に『混同秘策』)では、江戸に首都をおいて王城の地となし、もって「東京」と改称すべし、また、大坂(西京)とで二都制を設けるべしと主張し、さらに地方を14省制として行政機構を分置し、10学部制の大学を設置すべきと提案し<た>。
 経世家としての信淵は、しばしば海保青陵・本多利明と並び称され<、>市場経済よりも政治に傾斜した論である<点は、三者>に共通<していた。>
 信淵の重商主義論はこの2人、とりわけ本多利明の重商主義論から強い影響を受けた 。・・・
 海保青陵の一藩重商主義に対し、本多利明によって示された一国重商主義は<佐藤信淵>によって引き継がれ<、本多と同様、佐藤は、>・・・北越や奥羽の農民の困窮や荒廃した農村を救済<しようとしたのである> 。・・・
 <佐藤は、>対外進出論の面でも利明の重商主義論を継承している<が、>・・・利明が平和的なものであったのに対し、信淵の場合は戦争をともなう軍事的な侵略が明確に示されていた。・・・
 <具体的には、>イギリスの富強は世界各国との貿易によっており、通商航海はおおいに必要であると説いて公然と開国論を唱え<ると共に、>・・・『宇内混同秘策』の冒頭に「皇大御国は大地の最初に成れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし」と書い<たように、>日本至上主義を唱え<つつ>、満州、朝鮮、台湾、フィリピンや南洋諸島の領有等を提唱した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%B7%B5

 このように、小楠たちの真意のほどは別として、彼らは後年、膨張国策の支持者と解釈された。・・・」(329)

⇒徳富蘇峰は、当然、小楠が何を「信奉」していたかについて知悉していなければならない立場であったというのに、到底そうであったとは思われないと以前(コラム#10634で)指摘したところですが、そんな蘇峰の本多利明論や佐藤信淵論など、全く信頼に値しませんし、いずれにせよ、蘇峰について、「後年」の識者の代表視してはいけないでしょう。
 サンソムは、蘇峰の小楠評価に(正しくも)疑いの念を持っていたというのに、どうしてそんなことをしてしまったのでしょうか。
 とまれ、江戸時代の著名な経世家達の多くが、市場経済志向的ではなく、社会主義志向的であったことと同時に、開国志向的であったこと、は覚えておいていいことですね。
 彼らは、プロト日本型政治経済体制の諸弱点を直視しつつ、未来のあるべき日本型政治経済体制を展望していた、というわけです。(太田)

(続く)