太田述正コラム#10824(2019.9.26)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その28)>(2019.12.15公開)
「・・・ナポレオン戦争終結以後、英国の通商拡大の努力は、もっぱらインドおよびシナ貿易に集中された。
英国商人の側において、対日貿易が将来貴重になる可能性に強い関心を示した兆候はほとんどない。
英国政府は、シナ貿易さえも、(たとえ広東商人はそのように考えなかったにせよ)東インド貿易に対する副次的あるいは補足的なものとしか見なさなかった。
実際、日本開国の直前においてさえも、多くのイギリス実業家たちは、日本は貧乏国だから販売するものがほとんどなく、それゆえ、英国の工業製品を購入するゆとりなどはあり得ない、と考えていた。
⇒興味深い箇所ですが、ここにも、残念ながら、典拠が付されていません。(太田)
これに関連して重要なのは、1854年10月(安政元年8月)、スターリング<(コラム#9843)>提督が結んだ日英約定<(注31)>が、貿易に言及していないことである。
(注31)にちえいやくじょう。「1854年・・・3月に日米和親条約が締結され<ていたが、>・・・クリミア戦争の敵国であるロシアの・・・エフィム・プチャーチンが・・・率い<る>・・・4隻の艦隊・・・が長崎に入港しているとの情報が得られ<た>英国東インド・<支那>艦隊司令ジェームズ・スターリングは、それを捕捉すべく長崎に向かった。1854年9月7日、スターリング率いる帆走フリゲートウィンチェスターを旗艦とするイギリス艦隊・・・他に、エンカウンター(スクリューコルベット)、スティックス、バラクータ(共に外輪スループ)・・・が長崎に侵入した。すでにロシア艦隊は長崎にはいなかったが、スターリングは英国とロシアが戦争中であること、ロシアがサハリンおよび千島列島への領土的野心があることを警告し、幕府に対して局外中立を求めた。このときの長崎奉行は水野忠徳<(コラム#4560、9809、9821、9831、9843)>であったが、もともと水野はペリーとの交渉のために長崎に派遣されていた・・・幕府はペリーに次回の交渉時には長崎に行くように伝えていた。・・・このため、水野はスターリングも外交交渉のための来航と考え、幕府に許可を求めた。
江戸幕府の許可を得た水野忠徳及び同目付永井尚志<(コラム#9809、9843)>が同年10月14日(嘉永7年8月23日)、日英和親条約に調印した。スターリングは外交交渉を行う権利は有しておらず、かつ本国からの指示も受けていなかった。しかし、日本の北方でロシア海軍との交戦を行うためには、日本での補給を可能にすることには大きなメリットがあり、本国も追認した。
日本は先の日米和親条約で米国に下田と箱館の開港を認めていたが、この条約では長崎と箱館を英国に開放(条約港の設定)し、薪水の供給を認めた。また、犯罪を犯した船員の引き渡しや、片務的最恵国待遇などの規則も定められた。ただし通商規定(領事派遣の規定)は無く、加えて、条約港に来航した英国船は日本法に従うことが義務付けられた。これに香港総督ジョン・バウリングは異論を挟んだが、清国との関係悪化によって妥結した。
その後、ロシアやオランダとも同様の和親条約が締結され、1858年にはエルギン伯爵ジェイムズ・ブルースが来日して五港開放や貿易と英国人の居住を認める日英修好通商条約が締結される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%92%8C%E8%A6%AA%E6%9D%A1%E7%B4%84
条約そのもの。「条約港に来航した英国船は日本法に従うこと」は第六条に規定されている。↓
https://en.wikisource.org/wiki/Anglo-Japanese_Friendship_Treaty
ところが、日露条約<(注32)>は開港場における貿易に関して一条を設けていたのである<(注33)>。・・・」(下5~6。以下、「下」を略す)
(注32)「条約の正式名称は、日本国魯西亜国通好条約・・・安政2年12月21日(1855年2月7日)に伊豆の下田(現・静岡県下田市)長楽寺において、日本とロシア帝国の間で締結された条約。日本(江戸幕府)側全権は大目付格筒井政憲と勘定奉行川路聖謨、ロシア側全権は提督プチャーチン。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E5%92%8C%E8%A6%AA%E6%9D%A1%E7%B4%84
(注33)「第五條 魯西亞船下田箱館へ渡來の時金銀品物を以て入用の品物を辨する事を許す」
https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E5%92%8C%E8%A6%AA%E6%9D%A1%E7%B4%84
⇒「貿易」に言及したくだりは、いかにも、元駐日英大使館員らしい、サンソムの公的文書の細部・・些事?・・へのこだわりですね。
ロシアとのグレートゲームの記憶が、昭和戦前期の英大使館員らの中には残っていた、ということなのかもしれませんが・・。
なお、日英約定の司法管轄権規定に関しては、スターリングは、艦艇の治外法権性や乗員たる海軍軍人達の公務に係る治外法権性、の認識すら持ち合わせていなかったということであり、香港総督が問題視したのは当たり前です。(太田)
(続く)