太田述正コラム#10826(2019.9.27)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その29)>(2019.12.16公開)

 「・・・ペリー・・・の遠征隊の厖大な記録から明らかにされるのは、ペリーおよび米国政府の目的が、たとえアメリカの利益の増大にあったことは当然であるにしても、自分たちが最も開明的かつ博愛的方途により行動していると確信していたことである。
 当時の大半の西洋諸国民と同様、彼らは、自分たちの見解の正当性および自国文化の完璧さにつき、自己陶酔とまではゆかなくても、非常な信念を抱いていた。
 日本人が欲しようと欲しまいと、西洋は自己の文明の恩恵を与えようと申し出た。
 それは彼らにとって善なのであった。
 それゆえ、たとえ武力を使用せざるを得ぬ羽目に陥っても、ペリーは道義的見地からも、なんらの疑念も抱かなかったと思われる。・・・」(7~8)

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[ペリー来航の背景]

〇米国人達の日本への冒険旅行と植民

 「1791年(寛政3年) – 冒険商人ジョン・ケンドリック<(注34)>が2隻の船とともに紀伊大島に上陸。日本を訪れた最初の<米国>人。

 (注34)John Kendrick。1740?~94年)。「マサチューセッツ<植民地に生まれ、自分自身もその独立戦争に従軍したところの、米国>の軍人、船長、冒険商人。ロバート・グレイ(Robert Gray)らと共に、 <米>太平洋岸北西部探検を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF

⇒上掲を読めば、その不慮の死を含めた、彼の破天荒な生涯が分かろうというものだ。
 ゲルマン人の好戦性・冒険性の塊といった趣がある人物。(太田)

  1797年(寛政9年) – オランダがフランスに占領されてしまったため、数隻の<米国>船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易を行う。1809年(文化6年)までに13回の来航が記録されている。
  1830年(天保元年) – 小笠原諸島の父島にナサニエル・セイヴァリー<(注35)>が上陸。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%88%B9%E6%9D%A5%E8%88%AA

 (注35)Nathaniel Savory。1794~1874年。「マサチューセッツ州・・・に生まれた。1810年代から船員として働き、その後<英>商船に乗り組んでいたが、1829年、船がホノルルに入港した際の事故で右手指を負傷し、治療のため下船した。ハワイでの療養中、<英>領事・・・が小笠原諸島への入植計画を進めていることを知ったセイヴァリーは、イタリアのラグーサ(現:クロアチアドゥブロヴニク)出身のイギリス人マテオ・マザロを団長とした小笠原諸島移民団に参加した。
 文政13年5月10日(1830年6月26日)、欧米人5人と太平洋諸島出身者25名が、小笠原諸島父島・・・に入植した。・・・移民団は、トウモロコシやタマネギなど野菜類の栽培や、アヒルやブタなどの家畜の飼育を行い、それらを島に寄港する捕鯨船や商船に売ることで生計を立てた。・・・
 マザロ<は、>・・・天保13年(1842年)にハワイへ・・・去ると、事実上セイヴァリーが島民のまとめ役となった。
 嘉永6年(1853年)5月、・・・ペリー提督は日本来航の途中同島に寄港し、植民政府樹立計画をたて、セイヴァリーを移民の頭目に選んだ。
 文久元年(1861年)12月、江戸幕府の外国奉行水野忠徳や小笠原島開拓御用の小花作助らが江戸幕府の命により同島の巡検および開拓使として上陸してきたとき、・・・島民代表<2人のうちの1人>として水野らの意を受け、同島が日本領であることの再確認と、江戸幕府の定めた開拓規則を守ることを約束した。のち本土で生麦事件がこじれイギリスと戦いが懸念されると、文久3年(1863年)小笠原諸島の日本人住民全員に避難命令が出された<が、>セイヴァリーらは島に留ま<っている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B5%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AA%E3%83%BC

⇒これもまた、(先住民のいる可能性のある地への)ゲルマン人的移民と言うべきか。(太田)

〇米国の捕鯨や対清交易と日本

 「産業革命によって欧米の工場やオフィスは夜遅くまで稼動するようになり、その潤滑油やランプの灯火として、おもにマッコウクジラの鯨油が使用されていた。この需要を満たすため、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で捕鯨を盛んに行って・・・おり、米国東海岸を基地とする捕鯨船は1年以上の航海を行うのが普通であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%88%B9%E6%9D%A5%E8%88%AA
 「捕獲用器具としては手投げ式の銛に加え、1840年代に炸薬付の銛を発射するボムランス銃 (Bomb Lance Gun、ボンブランスとも)と呼ばれる捕鯨銃が開発された。捕獲対象種にはコククジラやセミクジラ、ザトウクジラも加わり、鯨油と鯨ひげの需要に応じて捕獲対象種の重点が決定された。19世紀中頃には最盛期を迎え、<英>船などもあわせ太平洋<だけでも、>操業する捕鯨船の数は500~700隻に達し、<米>船だけでマッコウクジラとセミクジラ各5千頭、<英>船などを合わせるとマッコウクジラ7千~1万頭を1年に捕獲していた。・・・
 <ちなみに、米国人の>ハーマン・メルヴィルは1840年から<米>船の乗組員として<太平洋で>働いた経験も元に『白鯨』[(1851年)]を執筆した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%95%E9%AF%A8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%AF%A8 ([]内)

⇒植物性油に比べて、当時、鯨油に比較優位性があったのかどうかまで調べなかったが、難破の虞(↓)や長期間の悪環境下での生活(↑)を伴ったところの、武器弾薬を用いた巨獣狩り、であったことが、広義のアングロサクソンの捕鯨への情熱を支えていた、というのが、『白鯨』を読んだ時以来抱き続けてきた私の仮説だ。
 最新の私の言葉を用いれば、これもまた、ゲルマン人的な好戦性・冒険性の表れ、ということに・・。(太田)

 「当時の捕鯨船は船上で鯨油の抽出を行っていたため、大量の薪・水が必要であり、長期航海用の食料も含め、太平洋での補給拠点が求められていたが、<米国>も例外ではなかった。
 ・・・<捕鯨>難破船の・・・漂流民の保護<のために>・・・も、太平洋に面する日本と条約を締結することは有利であった。
 <また、米国>はすでに1846年に<英国>との交渉でオレゴンの南半分をその領土としていたが、1846年 – 1848年の米墨戦争でカリフォルニアを獲得し<、>米国は太平洋国家となり、巨大市場である清との・・・最短航路<上に位置したところの>・・・津軽海峡に面した松前(実際に開港したのは箱館)に補給拠点をおくことが望まれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%88%B9%E6%9D%A5%E8%88%AA 前掲

⇒ロシアと米国は日本の開国に向けて競い合っていたわけであり、本来はロシアと比較した形で書くべきだろうが、他日を期したい。
 なお、米国は、仇敵の英国とも、対清貿易で競い合おうとしていたけれど、英国にとって、日本は、東の端であって、その意味では価値が低く、グレートゲームを「戦って」いたところの、ロシアが日本にまで食指を延ばすことへの警戒心はあっても、日本開国への意欲はさほどなかった、といったところだろう。(太田)
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(続く)