太田述正コラム#10828(2019.9.28)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その30)>(2019.12.17公開)

⇒サンソムがペリーの見解を紹介したのは、その見解を、当時、世界に進出してきていた「西洋」人達の見解の代表例である、と彼が見ているからこそでしょうが、彼が、かかる見解に対して何のコメントも付していないことには苦笑せざるをえません。
 サンソムのように日本に惹かれていた人物なら、ペリーら「西洋」人士の美辞麗句的見解に疑いの念を抱いていても不思議ではないというのに・・。
 私の最新の見解に照らせば、ペリーら「西洋」人士がどんな美辞麗句的見解を表明しようと、彼らを潜在意識下で突き動かしていたものは、ゲルマン性に基づくところの、誰よりも早く、全世界の自然と人間を支配し尽くそうという情念だった、ということになるわけですが・・。(太田)

 「・・・当時の情勢が、それにつづく10年間と同様、・・・ペリーや彼の士官たち・・・の諒解するにはあまりにも不思議であったことは、まず確実である。
 この時期の国内政治が、「夢物語」といったたぐいの表題を持つ書物のなかで、同時代の著者により叙述されたことは、一回にとどまらぬ。・・・
 高野長英に『夢物語』<(注36)>、馬場文英に『元治夢物語』<(注37)>があり、後者にはE・M・サトウの英訳(1905年刊)もある。・・・

 (注36)「天保9年(1838年)10月15日に市中で尚歯会の例会の席上で、勘定所に勤務する幕臣・芳賀市三郎が、評定所において進行中のモリソン号再来に関する答申案をひそかに示した。幕議の決定は、漂流民はオランダ船による送還のみ認めるというものだったが、もっとも強硬であり却下された評定所の意見のみが尚歯会では紹介されたために、長英・渡辺崋山・・・をはじめとするその場の一同は幕府の意向は打ち払いにあり、またモリソン号の来航は過去のことではなくこれから来航すると誤解してしまった。
 報せを聞いてから6日後に、長英は打ち払いに婉曲に反対する書『戊戌夢物語』を匿名で書きあげた。・・・これは写本で流布して反響を呼び、『夢物語』の内容に意見を唱える形で『夢々物語』『夢物語評』などが現われ、幕府に危機意識を生じさせたため、後に長英自身が投獄の身となった(蛮社の獄)。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E6%88%8C%E5%A4%A2%E7%89%A9%E8%AA%9E
 (注37)「日本の近代史は嘉永6年のペリー来航をもって始まるという見方とともに,元治元年7月の禁門の変にいたる経緯を通史として初めて描き出した<ところの、>幕末史の嚆矢・・・<であり、>同時代の豊富な史料と自身の見聞による・・・同時代史<でもある。>」
https://www.iwanami.co.jp/book/b246576.html
 なお、馬場文英は、「福岡藩御用達の商人で尊攘派の人々と交流のあった」人物。
http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/372/index02.html

 この矛盾撞着の渦巻からやがて一解決が現れ出るが、何人もそれがどのようにして、またなぜかを明らかに言うことができない。
 事物や思想は、その気違いじみた堂々めぐりをやめて、各自の定められた位置に落ちてゆく。
 このようにして夢が覚めてみると、国は一つの指導権のもとに統一されているのである。・・・」(12)

⇒サンソムは、ここでも、当時の通説・・残念ながら今でも通説のままですが・・に拠っているだけ、ということなのでしょうが、先の大戦に係る共同謀議説が日本を占領していた頃、英米当局の間で蟠っていただけに、幕末/維新期についても、同様の陰謀論が成り立たないか、をサンソムが検討してみた気配すらないのが、私には、腑に落ちないというか、残念というか・・。(太田)

 「・・・ペリーが、1854年(安政元年)に琉球諸島で第二次日本渡航の準備中、オランダ領東インド総督から一通の書状を受取ったが、それは、日本当局の要請にもとづき、彼に将軍の死去を知らせ、事態の紛糾中は日本に戻らぬようにとの日本側要望を伝えていた。
 事態は実際紛糾していたが、それは新しい将軍に子供ができず、後継者指名問題がもっとも重視され、それは朝廷や封建諸侯を多くの党派に分裂させ、条約問題にまさる争いを発生させたからである。・・・」(15)

⇒幕府は、あらゆる言辞を弄して、ペリーとの交渉を回避し先送りを図っていたわけですが、ここでもサンソムは、将軍後継問題の背後にあったところの、倒幕と維新の成功へと導く、「陰謀」、が存在した可能性を疑ったフシは皆無です。(太田)

(続く)