太田述正コラム#9672005.11.25

<フランスにおける暴動(その14)>

9 エピローグに代えて:フランスのユダヤ人差別

 フランスにおける今回の暴動は、市民の完全な平等というタテマエの下における深刻なイスラム系移民差別がもたらしたものでしたが、フランスにはより深刻な前科があります。

 ユダヤ人迫害という前科です。

 作家エミール・ゾラ(Emil Zola)によるユダヤ人差別糾弾で有名なドレフュス事件を思い出すまでもなく、もともとフランスにはユダヤ人差別の歴史がありました。

 このため、先の大戦前、フランス在住のユダヤ人とフランス人の間にはほとんど交流はありませんでした(注28)。

 (注28)あのニール・ファーガソンは、戦間期までには西欧でユダヤ人社会は非ユダヤ人社会と完全に統合されていた(?!)にもかかわらず、ホロコーストが起こったとし、だから異質の少数派が多数派と完全に統合された・・少数派に対する差別が完全になくなったように見えた・・としても、安心することはできない、と主張している(http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-ferguson21nov21,0,2648368,print.column?coll=la-news-comment-opinions1122日アクセス)が、史実を知らない歴史家は、歴史家の名に値しない。

 1940年にフランスはナチスドイツに敗れ、フランスの三分の二はドイツの占領下に置かれ、南部の三分の一にドイツへの協力を義務づけられたヴィシー政権が成立します。

 さて、ご存じのように、ナチスはユダヤ人迫害を始めるわけですが、1944年にナチスがフランスから撤退するまでの間に、ナチス占領下のフランスでは77,000人のユダヤ人がフランス外に移送され(強制収容所に送られた)たのに対し、ヴィシー政権下のフランスでは、81,000人のユダヤ人(24,5000人は元からフランスに在住していたユダヤ人、56,500人は外国から避難してきていたユダヤ人)が移送されています。

 これだけでも、ヴィシー政権の方が、より「熱心」にユダヤ人迫害を行ったことが分かります。

 実際、ヴィシー政権の方が、ユダヤ人の定義を広く取りました。おまけにドイツやナチス占領下のフランスでは、キリスト教徒を配偶者とするユダヤ人は移送されなかったというのに、ヴィシー政権では移送したのでした。

 もっとも、当時フランスにいたユダヤ人の約四分の三は逃げ延びることができています。

これは、ナチスの他の占領地や勢力圏では見られない高いユダヤ人生存率であることは確かです。

しかしこれは、必ずしも当時のフランス人のユダヤ人差別意識が低かったことを示すものではなく、ドイツに対する反感が、一般のフランス人をして積極的なドイツへの協力を控えさせたために過ぎません。また、スペインというユダヤ人にとっての聖域がフランスに隣接していたことも幸いしました。

 いずれにせよ、連合国の一員としてフランスを「解放」したドゴール政権以降、フランスの歴代政権は、ヴィシー政権関係者を裏切り者として断罪し続けてきたにもかかわらず、卑怯にも、このようなヴィシー政権のユダヤ人迫害の事実は隠し通してきたのです。

 フランス政府及び社会が、戦時中のユダヤ人迫害の事実を認めたのは、実に1995年になってからです。

 (以上、http://histclo.hispeed.com/essay/war/ww2/hol/holc-fra.html1124日アクセス)による。)

 しかし、まだまだフランス政府は隠している、ということが昨年明らかになりました。

 1944年にフランスが「解放」された時点で、フランス内に約300あった収容所はすべて閉鎖されたと考えられていたのですが、トゥールーズ(Toulouse)の南25マイルにあった収容所だけは閉鎖されず、(米英等の)連合国や中立国の数百名もの市民が、数を減じつつも引き続き戦後の1949年まで収容されていたことが判明したのです。

 どうやらこれらの収容者達は、ユダヤ人の収容所への収容と移送の目撃者であることから、「解放」前後に一箇所の収容所に集められ、「解放」後も密かにドイツに移送され、移送できずに上記収容所に残された人々は、これまた密かに「消されて」行ったようなのです。

 (以上、http://www.guardian.co.uk/secondworldwar/story/0,14058,1318972,00.html200410月5日アクセス)による。)