太田述正コラム#968(2005.11.25)
<フランスにおける暴動(その15)>
では、ホロコーストに積極的に加担したことをこれだけ恥じたはずの戦後フランスで、ユダヤ人差別は払拭されたのでしょうか。
全くそんなことはありません。
現在の在フランスのユダヤ人人口は約60万人と推定されていますが、最近では、毎年約2,000人のユダヤ人がイスラエルへ「脱出」しており、その数は次第に増えつつあります。
昨年7月には、イスラエルのシャロン首相が、フランスのユダヤ人は、「最もひどいユダヤ人差別(the wildest anti-semitism)」を逃れるために、フランスから緊急に脱出する必要がある、と述べ、フランスの朝野はこれに激しく反発しました。
ところが、シャロンがそう述べた相手である米国のユダヤ人達は、全くその通りだ、とみんながうなずいたのです。
現在のフランスのユダヤ人差別には三種類のものがあります。
第一は、カトリシズムに由来する伝統的かつ牢固なユダヤ人差別です。(これは、英米では全く見られない類のユダヤ人差別です。)
第二は、最近の左翼インテリ(Rive Gauche penseurs)の親パレスティナ・反イスラエル感情に由来するユダヤ人差別です。(これは、英米でも目にすることができます。)
そして第三は、フランスの500万?600万人のイスラム系移民の間に見られるユダヤ人差別です。これは、貧困層を代表するイスラム系移民による、富裕層を代表するユダヤ人に対する反感に由来するものです。(これはやはり、イスラム系移民が比較的豊かである米国ではもとより、イスラム系移民が貧困層を代表している英国でも、全く見られない類のユダヤ人差別です。)
2003年から2004年にかけて飛躍的増大した、ユダヤ人に対する暴言・暴行やユダ人関連施設の損壊には上記三種類のユダヤ人差別の全てがかかわっているけれども、イスラム系移民によるものが最も多いのではないかと考えられています。
もっとも、皆さんご存じのように、その「共和国原理」に基づき、フランスにはユダヤ人に関する統計もイスラム系移民に関する統計も存在しないため、以上申し上げたことはフランスで誰もが囁きあっていることではあっても、公式にはあくまでも推測に過ぎません。
そんなことはさておき、フランスにはこのように依然として深刻なユダヤ人差別が存在しているけれど、それ以上に、以前にも指摘したように、深刻なイスラム系移民差別が存在していること、にもかかわらずこの差別をフランス政府やフランス社会が直視せず、従って何の対策も、いわんや何のアファーマティブアクションもとられてこなかった(注29)こと、そのことがイスラム系移民の間に憤懣を充満させ、それがユダヤ人差別の激化の形でまず顕在化しているところ、その憤懣がやがてはフランスの国家・社会そのものに向けて爆発するであろうことは、昨年時点では既に国際的常識だったのです。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.guardian.co.uk/elsewhere/journalist/story/0,7792,1272129,00.html(2004年7月31日アクセス)、及び(http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1331347,00.html(2004年10月21日アクセス)による。)
(注29)フランスで、飲酒の弊害がこれまで全く問題にされてこなかったのも、差別の存在を認めてこなかったことと同じく、全ては個人の責任とする「共和国原理」のせいかもしれない。先般、フランスには飲酒過多が500万人、アルコール依存症が200万人いて、10人に1人が飲酒が原因の病持ちであり、毎年飲酒が直接的な原因で23,000人、そして飲酒が間接的な原因で22,000人も死亡しているにもかかわらず、政府は何の対策もとっていない。(http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1650396,00.html。11月25日アクセス)
10 今度こそエピローグ
本シリーズにおいて、英米のプレス、就中英国のプレスの論調に従って、フランスにおけるイスラム系住民等に対する差別をあげつらってきたことに反発のある方もあろうかと思います。
英国にも差別はあるはずだし暴動もあったはずだ。将来暴動が起きない保証もあるまい、という声が聞こえてきます。
私の考えは以下のとおりです。
英国のフランスとの違いは、ロンドンの南の郊外のブリクストン(Brixton)で1981年に暴動が起きた時のことを振り返ってみると浮き彫りになってきます。
ブリクストンでの暴動は、今回のフランスにおける暴動と全く同様の原因・・警察によるハラスメント・貧困・失業・・で起こったのですが、7日間で、300名の負傷者が出て、83の建物と23の車が損壊されだけで終わり、この暴動が英国の他の地域には波及することもなかった、という具合に様々な意味で、今回のフランスにおける暴動よりもはるかに規模の小さいものでした。
なお、暴動の主体は、黒人移民の若者達でした。
英国はこの暴動を契機に、明確に多文化主義を打ち出し、アファーマティブアクションを含む様々な差別解消施策を講じ、現在では、下院に沢山の非白人の議員を擁し、ロンドン警視庁の30,000余の警官のうち非白人は7%を占めるに至っています。
(ただしその後、1985年にはブリクストンで再び小暴動が起きたし、2001年には、イギリス北部のいくつかの都市でアジア系と白人の若者達の間で小競り合いが起きている。)
(以上、http://www.nytimes.com/2005/11/20/weekinreview/20cowell.html(11月20日アクセス) による。)
つまり、英国は、小さい規模の暴動が起きただけで、すみやかに、抜本的な差別対策を講じるだけの柔軟性を持っているという点で、フランスとは決定的に違うのです。
もちろん、将来のことは分かりませんが、私は、1981年のブリクストンでの暴動のような規模の暴動すら、見通しうる将来にかけて、英国では起きないだろうと思っています。
そもそも、英国は、もともと多文化主義的な国であり、欧米における反差別のチャンピオンなのです(コラム#379?381)。
英国は、欧米諸国の中で最も早く、ユダヤ人差別を克服(コラム#478?480)し、奴隷制を廃止(コラム#225、591、592、594、601、608)しました。
私は、英国におけるこの多文化主義的・反差別的伝統は、アングロサクソンなる民族の成立の経緯にまで遡る筋金入りのものだ、と考えているのです(コラム#379)。
その英国が、欧米諸国の中で最も植民地統治に巧みであり、しかるが故に、世界最大の帝国を築くことができたのは、当然だと言うべきでしょう。
しかし、その英国の植民地統治も日本の植民地統治には及ばず、餓死や虐殺を伴うものであった(例えば、コラム#609、610)こと、しかも、計算の仕方によっては1000年にわたって統治したアイルランドを英国はついに統合することに失敗したこと、かつまた故会田雄次をして、著書「アーロン収容所」で英国人の黄色人種差別を糾弾させたこと、はどうしてなのでしょうか。
それらについてはまた、別の機会に。