太田述正コラム#10339(2019.1.27)
<2019.1.27関西オフ会次第/皆さんへの問いかけ(コラム#10251)について(その2)>(2019.12.19公開)
–2019.1.27関西オフ会次第–
<HH>
いまだに、太田さんの言う杉山構想中の、米国に日本を占領させよう計画の部分は信じられない思いがしている。
アジア解放については、全く同感なのだが・・。
<太田>
もとより、私自身、ホントかいな、というのが率直なところではある。
とはいえ、他に説明のしようがないので・・。
いずれにせよ、異論があるのなら、根拠をあげて論理的に説明してもらえるとありがたい。
<KA>
若かりし頃、文化人類学者を志し、国立大の大学院に進んだのだが、某国でフィールドワークしてみて、余りの貧しさに絶句した。
かつてそういった諸国を植民地支配していたということもあって、欧米で始まった文化人類学は上から目線だ。
それに対し、日本人の文化人類学者は、純粋に好きだからやっている人が多い。
自分は、結局、学者にはならずに転進してしまったが・・。
<猫魔人>
太田コラムとの出会いは、大学受験の勉強をしていた時であり、世界史は好きだったが日本史は面白くなくて好きではなかったところ、太田コラムを通じて日本史の面白さを見出し、受験勉強も捗ったのでありがたかった。
現在は、仏教に関心を強く持っている。
<鯨馬>
現在、小室直樹の伝記を図書館で借りて読んでいる。
日本が容易に資本主義化できた理由を、小室が、ヴェーバーの説を踏まえ、超絶性において、キリスト教の神に相当するところの、天皇、が日本には存在したからだと指摘したが、どう思うか。
<太田>
私の主張は殆ど全部がオリジナルだが、支那文明のホンネは墨家の思想だという部分は受け売りであり、その旨、昨日の八幡市レクでも語ったのだが、実は、もう一つ受け売りがあり、マクファーレンのイギリスは最初から資本主義/個人主義だった、という説がそうだ。
その説に照らせば、ヴェーバーは誤っていることになるわけで、従ってまた、小室も誤っていることになる、と私は思う。
それに、そもそも、日本は資本主義化したわけではない。
<Terry Teruaki>
中共は阿Q性を克服するのは不可能ではないのか。
<太田>
朝鮮が失敗したように、文明は乗り換えようと思ってもまず乗り換えることはできない。
中共だって、不可能に近いとは思うが、とにかく、懸命に日本文明総体継受に努力している中共官民を温かいまなざしで我々は見守ってあげるべきだろう。
<Terry Teruaki>
3月の福岡オフ会も参加したいと思っている。
<太田>
悪くすると幹事一人だけの会になってしまうかも、と心配していたが、それはありがたい。
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–皆さんへの問いかけ(コラム#10251)について(その2)–
3 本題
(1)まっさらであること
まっさらであることは、先入観を持たないということですが、これについてのとっかかりは、私にとっても皆さんにとっても周知の『裸の王様』(注2)です。
(注2)「アンデルセンの童話。1837年作。原題は『皇帝の新衣裳(いしょう)』。14世紀スペインのドン・マヌエルの『ルカノール伯』中の一挿話の翻案で、おしゃれ好きの王様が旅の裁縫師のペテンにかかるという大筋もそれによっているが、二つの点で原作を改めている。一つは、ペテン師たちが織っている布は姦通(かんつう)から生まれた者には見えないというのを、自分のついている地位にふさわしいだけの才能をもたない者には見えないとしたこと、もう一つは、王様は裸だと指摘するのが、もとは馬丁だったのを、いわば「天の声」である子供の口から叫ばせたこと。これによって、ただ奇異なだけの原作が社会批判を潜めた不朽の童話の名作となった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A3%B8%E3%81%AE%E7%8E%8B%E6%A7%98-675783
一人の小さな子供
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B8%E3%81%AE%E7%8E%8B%E6%A7%98
先入観を持たないというのは、学術的に紹介、説明すると、ほぼ、「認識形式」というフィルターが未発達、ということになりそうです。↓
「人間の認識や認識に基づく行為はすべて、何らかの意味で、直接の対象認識の前に、予備的な知識や、認識・把握の枠組みが存在するものである。哲学的には、客観である「もの自体」は認識できず、主観の「認識形式」というフィルターを常に通じて、人間の対象認識や、世界に対する行為は成立している。
しかし、このような主観認識のフィルターは、人間が世界を認識するにおいて、また他者と社会生活を送り、コミュニケーションを通じるにおいて、むしろ必要なものである。・・・
<この主観認識のフィルターが、>誤った認識や妥当性に欠ける評価・判断などの原因となる知識、または把握の枠組み<である場合に、それを>・・・「先入観」という。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E5%85%A5%E8%A6%B3
先入観に囚われてしまうかどうかは、知力の多寡とは関係ないようです。
オウム真理教の幹部達は、全員、高知力の持ち主達でしたよね。↓
「・・・我々は全員偏見を持ち、非理性的で、扇動、売り口上、そして、戯言(general nonsense)、に載せられ易い。・・・
・・・我々は、証拠よりも、諸仲間(tribes)、諸所属(affiliations)、そして、諸本能、に、より左右されている。」
http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2019/01/07/2003707490
(1月7日アクセス)
(2)好奇心の塊
好奇心の塊についてのとっかかりは、いわゆる「なぜなぜ期」だ、ということをやっとのことで思いつきました。↓
「幼児期の子どもはある時期になると、「なんで?」「どうして?」と繰り返し質問をするようになります。通称「なぜなぜ期」と呼ばれる2~6歳の時期を、心理学では「質問期」と呼びます。・・・
人の脳は、3~4歳の頃に成人のおよそ80%、5~6歳の頃におよそ90%まで成長するといわれています。そのため、脳に知識を取り込む準備ができているなぜなぜ期に適切な受け答えをすることは、子どもの成長の芽をさらに伸ばしていくうえで大切なことです。」
https://www.g-asuka.co.jp/column/respond-to-children-ask-question.html
大人だって好奇心はあるわけですが、それ、子供のようには素直に発動されないようです。
「ヒトが目新しいものにぶつかった場合は、まず驚愕が先に立ち、それから好奇心が生まれるか恐怖が生まれるかのどちらかである」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A5%87%E5%BF%83
ところ、幼児の場合は、驚愕が、即、好奇心に変わるけれど、大人の場合は、驚愕が、疑問、恐怖感、失敗畏怖、といった防御反応を引き起こしてしまい、それを乗り越えられない限り、好奇心は生まれない、というのです。(上掲)
これは、逆に言えば、幼児は防御反応が未発達であるおかげで、驚愕がそのまま好奇心に変わる、ということです。
なお、大人の場合は、好奇心が生まれたとしても、欲得ずくないしデバカメ的なものに堕してしまう場合が少なくないといいます。(注3)
(注3)イアン・レズリーの説:
拡散的好奇心・・狭義の好奇心 幼児の好奇心
知的好奇心・・・資格/免許取得に関する欲求等 大人の好奇心
共感的好奇心・・他人の考えや感情を知りたいという欲求
https://seikatsu-hyakka.com/archives/14878
4 終わりに
私は、まっさらな好奇心の塊だ、つまり、「認識形式」というフィルターが未発達なるがゆえに先入観を持たない、驚愕が即好奇心に変わる、人間だ、というわけです。
(このことを、恐らく見抜いた唯一の人間がCさんでした。
彼とは、私が25歳の時に出会ったのですが、しばらく経った頃、私について、赤ん坊のように物事を見る、と形容したのですからね。)
スタンフォード時代の学友であるAさんとBさんは、私ほどではないけれど、おさなご的な部分がある、というのが私の見立てなのです。
Aさんが私のことが気になるのは、自分の中のおさなご性が増幅された形で私の中に存在するからであり、Bさんが私のコラムの読者であり続けているのも同様の理由からだ、と私は見ている次第です。
(完)