太田述正コラム#10832(2019.9.30)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その31)>(2019.12.21公開)

 「・・・幕府が逃げ口上を使った史実も、その財政上の欠乏を考慮に入れればもっと理解しやすくなる。
 幕府が1853年(嘉永6)ペリーの圧力に屈服したのは、主として彼らが支払い不能に陥っていたためであった。

⇒ペリーの2度の来航当時に、幕府にどれくらい借金があったのかをサンソムは全く記していないので、調べようとしたのですが、米を中心に回っていた実物経済の側面が強かったからか、ネット上で具体的な数字を記す資料を発見できませんでした。(注38)

 (注38)例えば、薩摩藩については、「1832年、調所<広郷>が家老に就任<した>時<には>債務500万両<であったのが、>・・・1840年・・・には、250万両の蓄え<に変わった>」
http://www.econ-edu.net/activity/ws/Prof.Shiohara%20Edo.pdf
といった、借金額が分かるが、幕府に関しては、例えば、「廃藩置県により藩が消滅すると、旧藩の債務は新政府が引き受ける。しかし、財政的余裕はなく、まず1843年より前に諸藩が借りた負債は無効として事実上の徳政令とした。そして、1844年以降の負債に関しては、ほとんど無利息で50年間に渡り返済することに。しかし、江戸幕府の負債に関しては、幕府が「朝敵」であったと言う理由で、一切の債務引き受けを拒否した。」
https://jpreki.com/riyuu1/
とあり、新政府が調べることさえしなかった可能性があるところ、旧幕府の最終的な債務すら、不明のままだった。
 
 もっともこの事実は国民一般に知れ渡っていなかったし、いわんやペリーのごときは、知る術もなかった。
 ペリーといえば、彼が完全に自分の外交手腕の手柄にしたのは無理からぬことであった。
 幕府の崩壊を招いたのは、じつに幕府がその後にとった優柔不断な行動の結果であった。

⇒サンソムに限らないのですが、サンソムらは、幕府を崩壊させようとしていた側の戦略が幕府を存続させようとしていた側の戦略よりも優れていたからではないか、と、どうして考えないのでしょうね。(太田)

 なぜならば、独裁制というものは、敏速で断乎とした決定を下す能力をいかんに、その存続を賭けているからである。・・・

⇒幕末の日本は独裁制ではありませんでした。
 権威(朝廷)と権力(幕府)が分立していましたし、幕府の権力は、直轄領に関しては独裁制であったかもしれないけれど、各藩領に関してはそうではなかったからです。(太田)

 軍事独裁者たちは、当然強力であるべきであった1854年(安政元)には弱体であり、穏健でなければならなかった1941年(昭和16)には侵略的であったからである。・・・」(19~20)

⇒幕府はペリーに強硬に対応すべきであった、そして、幕府は存続した方がよかった、と読めるようなくだりですが、サンソムは、幕府が、ペリーの要求を拒否して攻撃を受けて日本側が一方的に被害を被ることを甘受すべきだったというのでしょうか、また、倒幕側よりも佐幕側の方が新時代を担うのにふさわしかったというのでしょうか。
 それなら、どうしてそう思うのかを彼は記すべきでした。
 かつまた、1941年の日本に関しては、「軍事独裁」など影も形もありませんでした・・天皇は君臨するだけで統治してはいませんでしたし、政府は議会の承認を得なければ予算の策定も法律の制定もできませんでしたし、陸海軍は完全に対等で競争関係にあり、「軍事独裁」の主体たりうるものなど存在しませんでした(以上、典拠省略)・・し、「侵略的」でもありませんでした。
 「侵略」という言葉をどうしても使うのであれば、当時の日本・・少なくとも杉山元らで代表される日本・・がやろうとしていたことは、欧米諸国のアジア「侵略」に対する「反侵略」、といったところでしょうね。
 なお、さすがに、そこまでサンソムに求めるのは酷というものでしょうが、日本は1941年に現在進行形であって1945年に終戦になるところの戦争に敗北したのではなく、勝利したのであって、それは、当時の(上記の意味での)日本が「穏健で・・・なかった」賜物であったわけです。(太田)

(続く)