太田述正コラム#10836(2019.10.2)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その33)>(2019.12.23公開)
「・・・条約締結交渉期間中、政府および国民の態度に見られた劣等感や蹉跌感は、明治維新後、僅か数年間に一般に表明された憤激感・屈辱感と密接な対照をなしている。
⇒サンソムは、幕末に「国民の態度に見られた劣等感や蹉跌感」や維新直後に「一般に表明された憤激感・屈辱感」、について具体的に何も記していませんし、典拠も付していません。
「攘夷」について先に説明したことからして、前者に関しては、そんなものはなかったと思われ、後者に関しては、「一般」が何を指すのかがそもそも明らかではない以上それについて具体的に何かを知ること自体が困難だったと思われます。(太田)
維新後、西洋諸国は、これら諸条約が不公正であるとの日本側の申立てに耳をかそうとしなかったのである。
・・・日本国民を駆って熱狂的な欧化主義を採用させるにいたった理由の一半はこの劣等感に帰せられる。
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[欧化主義]
「1880年代に明治政府が文化・制度・風俗・習慣を<欧米>風にして欧米諸国に日本が近代化した事実を認めてもらおうとして採った政策(欧化政策)とこれに関連して盛んに行われた思潮・風俗の動きをいう。
外務卿(後の外務大臣)井上馨を中心として、安政五カ国条約など欧米列強と締結していた不平等条約の条約改正の実現のために、憲法などの法典編纂と並行して、日本の文化を<欧米>風にすることで彼らが国際法の適用対象として見なす文明国の一員であることを認めさせようとした・・・
この欧化の動きは国内的には「貴族主義的」あるいは「上からの欧化」と見られてやがて左右の反政府派の攻撃の格好の標的となった。自由民権派は鹿鳴館をもって民衆から搾り取った税金を冗費にあてているのに「財政難」と主張していると非難した。平民主義を唱える民友社の徳富蘇峰らは「貴族的欧化主義」では何も生み出さないと批判して「下からの欧化」を唱えた。更に宮中の保守派や政教社の三宅雪嶺らを中心とした国粋主義者も井上が進める外国人裁判官の起用といった条約改正交渉に対する批判も加えて政府を攻撃し、これに内大臣三条実美の周辺(東久世通禧・土方久元・尾崎三良ら)や政府の要人である井上毅や谷干城までが乗ったのである。・・・
この時の伊藤及び内閣の危機的状況を「明治20年の危機」とも呼ばれている。
⇒横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達が中心となって欧化主義を推進したものの、それに対して、日本文明至上主義を抱懐するところの島津斉彬コンセンサス信奉者達が中心となって、広範な識者達を味方につける形で反撃したのが「明治20年の危機」といったところか。(太田)
こうした事態を受けて伊藤はやむなく谷と井上を更迭して大隈重信と黒田清隆を入閣させて事態の収拾を図った。だが、次の黒田内閣でも外務大臣に留任した大隈が爆弾テロに遭遇して条約改正に失敗すると、たちまち欧化主義は衰退し、対外硬派に支えられた国粋主義が台頭することになる。もっともこの時には既に大日本帝国憲法が制定されており、見かけだけの「欧化」に依存しなくても日本の国際社会における地位は少しずつ上昇に向かっていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E5%8C%96%E4%B8%BB%E7%BE%A9
⇒土佐藩出身の谷、熊本藩出身の井上、という島津斉彬コンセンサス信奉者2人を責任をとらせる形で切り、その代わりに、佐賀藩出身の大隈、薩摩藩出身の黒田、と、更に強力な島津斉彬コンセンサス信奉者2人を入閣させることでもって、伊藤は事態の収拾を図った、ということではないか。(太田)
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⇒すぐ上の囲み記事から明らかなように、「日本国民<が>・・・熱狂的な欧化主義を採用<し>た」ことなどなかったというのに、サムソンは一体どうしたのでしょうか。
なお、日本国民の対欧米「劣等感」なるものも、実態は定かではないのであって、恐らくは、サンソム自身の、欧米諸文明、就中アングロサクソン文明の日本文明に対する「優越感」の投影に過ぎない、と私は見ています。(太田)
さらに、後年強烈な排外運動を発展させたのも、外ならぬ不満の鬱積したこの同じ熱狂によるものであった。
⇒「後年<における>強烈な排外運動」についても、サンソムは、具体的に何も記していませんが、思い当たるフシがありません。ひょっとして、先の大戦中の、政府主導の反英米プロパガンダ(典拠省略)が彼の念頭にあるのでしょうか。
しかし、そうだとすると、米国等が、同じく先の大戦中に、矯激なまでの反日プロパガンダを展開したこと(典拠省略)と、単に好一対の挿話でしかないと思うのですが・・。(太田)
この維新前後の二つの時期における国民の合言葉が、維新前期においては「攘夷」であり、後期が「条約改正」であったことも意義深い。
両者とも排外の性格をおびるものであり、またいずれも一般国民感情に訴えるものを持つところから巧みに政治目的に利用された。・・・」(22~23)
(続く)