太田述正コラム#10838(2019.10.3)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その34)>(2019.12.24公開)
「・・・1856年(安政3)老中堀田正睦<(注39)(コラム#9809、9829、9902、10042、10728)>は、外国貿易の是非につき答申するようにとの指令を受け、関係全役人に本問題の検討を命じた。
(注39)「有為の人材を育成した<が、>・・・手塚律蔵を招いて日本で初めて「英語」の体系的な研究を始めさせたこともその一つであり、堀田-手塚人脈からは西周、神田孝平、津田仙、内田正雄、大築尚忠、三宅秀といった人物が輩出され、・・・木戸孝允も一時期は手塚門下であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E7%9D%A6
手塚律蔵(1822~78年)は、「周防国・・・に医師・・・の次男として生まれ<、>・・・長崎において高島秋帆やシーボルトに蘭学、造船術などを学び、のち英学にも長じ<、>江戸<経由で、>・・・下総国(千葉県)佐倉に移り、嘉永4年(1851年)<堀田の>佐倉藩に仕え、蘭書の翻訳に従事した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%A1%9A%E5%BE%8B%E8%94%B5
⇒サンソムは典拠を付していませんが、当時、堀田は老中首座ではあっても、その前年まで老中首座であった阿部正弘が、老中の一人として引き続き実権を握っていたとされている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E7%9D%A6
ことから、本件で、彼が、阿部から「指令を受け」たとしても不思議はありません。(太田)
彼あての上申中に、・・・筒井政憲<(コラム#9727、9793、9829、9833、9835、9843、10042、10824)>・・・の意見書があった。
筒井は次のように述べている。
自分の考えによると、貿易を開始すれば、反対者が予測するような無秩序ではなく好ましい結果が生ずるであろう。
交易用産物の不足から、貿易は減少に向うと考えるのは誤まりである。
当事者国双方の売買の必要は、必然的に日本の生産を増大させかつそれを多様化するであろう。
筒井は国家干渉に反対の立場をとり、貿易を個人に委ねることに賛成であった。・・・
⇒「攘夷鎖国が<もはや>時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった」堀田(上掲)が、筒井に言い含めてこのような上申を出させた可能性が高い、と、私は思います。(太田)
当時各方面に反幕感情はあったが、必ずしもそれは封建支配の根絶を意図していたものとは言いきれない。
明治維新の直前まで、徳川家の宿敵であった薩摩のような大藩でさえも、相当の権力を武家に留めておく一種の公武合体説であった。
⇒公武合体は、「幕府・・・<によって>、日米修好通商条約の調印を巡って分裂した朝廷・幕府関係の修復を図り、幕府の権威を回復するための対応策として推進され<、>尊王の立場から朝廷と幕府の君臣間の名分を正すことで反幕府勢力による批判を回避する一方、既に慣例化していた大政委任論を朝幕間で再確認し、改めて制度化することにより、幕府権力の再編強化が目指された<ところ、>越前藩の松平慶永(春嶽)、薩摩藩の島津斉彬<ら>・・・・からは、朝幕の連携に加え、外様藩をも含めた有力諸藩が力を合わせて挙国一致の体制を築くことが主張され<、>これは従来の譜代大名が就任する老中制に変革を迫るものであり、保守的な幕閣との摩擦は避けられないものであったばかりか、幕府中心の公武合体政策とも次第に齟齬をきたした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A6%E5%90%88%E4%BD%93
というわけであり、だからこそ、サンソムは、薩摩の公武合体に「一種の」をつけたのでしょう。
斉彬は、倒幕を容易に行えるようにするための布石として、「一種の」公武合体を唱えて春嶽ら本来は幕府側の諸有力者達を味方につけると同時に、尊王攘夷急進派を焚き付け、とまでは言わないとしても、あえて放置する、戦略を採った、と私は見ている次第です。(太田)
薩摩の大名(島津家)は、何世紀もの間婚姻を通じて公家貴族とも徳川家とも、親近関係を作り、1856年(安政3)になってさえ、島津斉彬はかれの娘[篤子]と将軍[家茂]を結婚させる取りきめを首尾よく結んだほどである。
⇒[]内は、恐らく翻訳者が書いたのでしょうが、「家茂」・・「家定」が正しい・・にはズッコケるだけではすみません。錚々たる翻訳陣の4名も、そして、もちろん、出版社の筑摩書房も、完全権威失墜と言われても仕方がない程のミスです。
なお、篤姫のこの輿入れもまた、(「尊王」の徳川斉昭の子の一橋慶喜を将来将軍に据えることで)倒幕を容易に行えるようにするための布石だった、というのが私の考え(コラム#省略)であるわけです。(太田)
略言すれば、以上の事態は普通の型の政治同盟のようであり、また事実そうでもあった。・・・」(26~27)
⇒以上から、私は、このくだりは、サンソムの見解には不同意です。(太田)
(続く)