太田述正コラム#975(2005.11.29)
<崩壊しつつあるフィリピン(その3)>
4 解決されないミンダナオ問題
(1)初めに
フィリピン南部のミンダナオ(Mindanao)島等にはイスラム教徒が多数住んでおり、フィリピン政府はイスラム教徒による分離運動に悩まされ続けてきました。
最近では、アルカーイダとこれら分離運動との結びつきが取り沙汰されています。
問題は、歴代のフィリピン政権に、このミンダナオ問題を抜本的に解決する意志がないことであり、現在のアロヨ政権もその例外ではありません。
どういうことなのか、ご説明しましょう。
(2)フィリピンとイスラム教の関わり
最初に、フィリピンとイスラム教の関わりを簡単に振り返っておきましょう。
イスラム教は、13世紀末から14世紀初めにかけて、アラブ商人によってスールー(Sulu。スル=スルー)諸島とミンダナオ島に持ち込まれました。スペイン人の探検家達がキリスト教を持ち込むより200年以上前のことです。
スルタン制も同時に導入されましたが、中でも一番有名なのはスールー諸島のホロ(Jolo)を首都とするスールー・スルタンであり、ムハンマドの子孫を自称するアラブ人によって1450年に樹立されます(注1)。その後50年ほどして、ミンダナオ島にもスルタンが樹立されます。
(注1)このスルタンは、現在まで続いており、昨年29代目のスルタンが就任した。ちなみに、スールーのスルタンは、1658年にブルネイのスルタンから、軍事援助への御礼としてボルネオ島のサバ(Sabah)地方を贈呈され、1878年にスールのスルタンはこのサバ地方を西欧の商人(複数)にリースし、見返りに武器と毎年1300米ドル相当のリース料を受け取ることになった。
その後、サバ地方はマレーシアの一部になったわけだが、スールーのサルタンはサバ地方の返還を求め続けている。もちろんマレーシアは返還を拒否しているが、リース料は今でも払い続けている。
それ以降、イスラム教は急速に北上し、ルソン島の現在のマニラ付近まで到達します。
16世紀半ばにスペイン人がやってくると、スペイン人は、フィリピンのイスラム教徒のことを、その直前にイベリア半島から駆逐したばかりのムーア人(Moors)が訛った、モロ(Moros)と呼びました。
スペイン人は、時には剣を用いてフィリピン人をカトリック教徒に改宗させて行きますが、ミンダナオとスールーのイスラム教徒達はスペイン人の支配に猛烈な抵抗を行ったため、スペインの支配がこれらの地方に及んだのは19世紀半ばになってからでした。
そしてついに1878年にスールーのスルタンは、スペインの保護領になることに同意させられます。1898年にフィリピンが米国領になった時も、ミンダナオ等のイスラム教徒達は、米軍に果敢に戦いを挑みました。
先の大戦後にフィリピンが米国から独立すると、フィリピン政府は、ルソン島等の貧民をミンダナオ島へ移住させましたが、イスラム教徒達はこれに強く反発し、1970年代から分離運動が再び再燃し、現在に至っています。
(以上、http://slate.msn.com/id/2112795/(1月29日アクセス)による。)
(3)分離運動の新展
分離運動の組織としては、モロ解放戦線(Moro Islamic Liberation Front =MILF)が有名ですが、1990年に、オサマ・ビンラディンの義理の兄弟とあるフィリピン人分離主義者の出会いの中から、新しい分離運動の組織が生まれます。アブサヤフ(Abu Sayyaf)です。
そして、モロ解放戦線もアルカーイダの影響を云々され始めます。
しかし、この二つの組織が本当にアルカーイダの影響下にあるのかどうかは、定かではありません。
2003年7月には、数百名のフィリピン軍の兵士達が蜂起し、マニラの商業地区を19時間にわたって占拠し、アロヨ政権が、米国の軍事・経済援助欲しさに、分離運動に武器を売ったり、自ら爆弾事件を起こしたりしてマッチポンプをやっている、とアロヨ政権を糾弾するという事件が起きています。
(以上、http://www.nytimes.com/cfr/international/20040101facomment_v83n1_rogers.html(2004年2月20日アクセス)による。)
(続く)