太田述正コラム#10840(2019.10.4)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その35)>(2019.12.25公開)

 「・・・明治の政治を研究する前に、いまや権力が、かつては兵士として養成され、思いきった手段に訴えるように訓育された人々の手中に帰したということも、想起すべきであろう。・・・
 <明治>時代には、個人の性格が非常に鮮やかな痕跡を残しているが、これに反してそれに引き続く数十年間の政治には、特定の名前がなく指導というものがなかったように思われる。
 明治時代の偉大な人物をよく知っていた多くの外国人観察者の間では、これらの人々が退場した後、日本の政治家の資質が非常に落ちたとする点で考えが一致している。

⇒司馬遼太郎史観は、サンソムを含むところの、終戦直後のこの「通説」を踏襲しただけ、ということですね。
 もちろん、こんな「通説」が、その大部分が幼年学校から「兵士」(武士)として育てられたところの、帝国陸軍の「指導」者達や、そのOBたる政治家達、にはあてはまらないこと、つまりは、こんな「通説」など誤りであること、を、太田コラム読者の皆さんの多くはご存知ですよね。(太田)

 この機会に、もう一つの観察を下してもよかろう。
 明治政府は有能の士にはこと欠かなかったが、<戊辰戦争を戦ったこともあり、>財政的に窮していた。・・・
 <他方、>多数の商人・地主が何百万の財産を所有していた・・・。

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[明治維新後、商人・地主が長者だった?]

 表記は、商人に関しては正しく、武士は藩主クラスと雖も、商人に比較すれば長者ではなかった、というわけだが、地主が長者であったという形跡はない。↓

「所有する財産を基準に<した>・・・長者番付<によれば、>・・・ペリー艦隊が来航する5年前・・・<の>1848年(嘉永元年)に・・・は、両替商が<11位までの>長者番付の<うち9人を占め>、産業のトップとして君臨している。・・・
 <そして、>ペリー艦隊来航15年後、既に徳川幕府が崩壊し、明治維新が成立したのち・・・<の>1875年(明治8年)・・<の、10位までの>長者番付<において>・・・は、呉服商の台頭が目覚ましく、<両者が>産業のトップに君臨している。」
https://bcj-co.jp/keiei11/knowhow186.html *

 それもそのはずであり、明治の初めころまでは、そもそも、日本に、れっきとした地主など存在しなかったからだ。↓

 「明治政府は<、>1872年に、土地の所在や面積、持ち主を明記した地券を交付し、所有地のデータを明確にした。これにより、土地の所有者がはっきりと決まり、現在の「地主」が生まれることとなった。そして1873年には地租改正を実施。土地の地価を定め、毎年地主に地価の3%を、米ではなく現金で納付させた。しかし、地価の3%は高額であり、豊作・凶作に関わらず払わねばならなかったため、貧しい農民は富裕者に土地を売り、小作人となるほかなかった。これがいわゆる「寄生地主」の誕生の背景だ。「寄生地主制」とは、農地の所有者である地主が小作人に土地を貸し、農作物の一部を小作料として徴収するもの。・・・
 小作料は小作人たちにとっては高額で、大きな負担になる一方、地主たちは小作料を受け取りながら、小作米を販売し、ますます裕福になっていく。さらに蓄財で金融業を営み、金銭の貸し出しを行う地主もいた。貸し出しの対象は小作人たちであることが多く、地主と小作人の貧富の差は大きくなる一方だった。さらに時代が下ると、地主達は国立・私立の銀行や銀行類似会社に株式投資を行うようにもなり、産業資本の下支えともなっていく。
 こうして力を持った地主たちは商工業に投資するなどして資本家になり、政府に対する力を発揮するようになった。」
https://www.homes.co.jp/cont/press/rent/rent_00643/ **

 では、その後はどうなったのだろうか。
 いつまで経っても、地主は、殆ど顔を出さない。↓

 「1908年(明治41年)の日本の長者番付<では、>・・・両替商と呉服商にとって代わり、三井・三菱・住友の三大財閥が長者番付の上位に名を連ね、産業のトップに君臨している。<また、>多くの旧藩主が長者番付に名を連ねている<。
 しかし、地主は29位までの中で、28位に1人顔を出すにとどまる。
 また、>・・・1926年(昭和元年)の日本の長者番付<では、20位までの中で、旧藩主が19位の1人にまで減ったが、地主は、相変わらず、20位に1人顔を出すにとどまる。」(*)

 もとより、地主は、一人一人の長者ぶりこそ各財閥の当主に及ばずとも、数が多かったので、地主全体としては、存在感があったのかもしれないが、財閥の方も、その幹部達はそれぞれがそれなりの長者であったはずであり、彼らの富を合算すれば、恐らくは、地主達の合算富を上回っていた、と思われる。
 それに、**からの引用中の記述からして、地主達の多くは「商人」化したようなので、結局、明治維新後の長者は、マクロ的には、一貫して商人達であった、ということになりそうだ。
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⇒すぐ上の囲み記事から、「多数の商人・地主が何百万の財産を所有していた」は誤りで、「多数の商人が何百万の財産を所有していた」が正しい、ということになります。(太田)

 新政府は、その指導者が政治革命同様<(注40)>経済革命を意図せぬかぎり、彼ら富裕階級を利用するか、懐柔する必要があった。

 (注40)引き続く、下掲のくだりに照らせば、ここは、恐らくは、as well asの誤訳だろう。正しくは、「同様」ではなく、「かつ」あたり。

 それに<・・ここも、「しかし」がより適切。(太田)・・>両革命を企てることは、一つの困難な改革を達成したばかりの革命家たちのとるべき道ではなし、少くとも、当時はそうではなかった。」(40~41)

⇒このくだりでは、サンソムは、無意味な問題提起をしていると言わざるをえません。
 明治新政府は、商人達と手を携えて、殖産興業を推進したのですからね。↓
 「殖産興業<に関しては、>・・・初期には鉄道,電信,鉱山,造船などの官営事業の創設,紡績,製糸などの模範工場の建設,さらには牧畜,農林業などの官営諸施設の創設などを中心に行われたが,1875年以降は,私企業への各種補助金,勧業資本金の交付などに重点を移していき,近代産業の形成を促進した。これら官営事業は,その後 80年の工場払下概則および 85年の工部省の廃止によって政商 (浅野,岩崎,三井,古河など) に廉価で払下げられ,財閥形成の原因ともなった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%AE%96%E7%94%A3%E8%88%88%E6%A5%AD-80130 (太田)

(続く)